2016年11月9日水曜日

●水曜日の一句〔杉山文子〕関悦史


関悦史









白皿に白ソーセージ夏の果  杉山文子


何がどうしたといった筋道もなく、好悪や是非の判断がくだされるわけでもなく、物件としてただ白皿に乗せられた白ソーセージだけが提示される。ところがこれがどちらも「白」と明示されているため、「夏の果」と組み合わさると、静物画めいた端然たる美感と情感を帯びてしまうことになるのだ。

語り手はこの白ソーセージを特に「愛でる」とも「眺める」とも言っていないのだが、逆説的なことに、そうした審美的な対象として弁別されていないがゆえに、かえって単なる食品が静謐な美しさをまとうこととなるのである。「皿にソーセージ」だけであればそうした効果は上がらない。これはひとえに、二回明示された「白」のはたらきによるものだ。「白」と繰り返し言われることで、ただの食器と食品が日常から不意に大理石の彫刻のように切り離され、いわば聖化されてしまったのである。

ただし聖化されつつも、これらが同時に相変わらずただの食器と食品に過ぎない点が重要で、句は次の場面へとなだらかに移ってゆき、そこでは「白ソーセージ」は何ごともなく食されてしまうことが予期される。ことさら審美的視線が介入しないことによって、句は大仰に永遠性を指示する力みへと凝固することをまぬがれ、どうということもない食卓や語り手の暮らしにまで聖化の光をやわらかく及ぼすことになるのである。

そう見てみたときに「晩夏」でも「夏終る」でもない「夏の果」という、季節の変わり目がなかば場所的な極限性と境界性に転じているような季語を置かれたことの必然性が際立ってくる。日常のなかに不意に聖化や永遠性がすべり込むとは、いわば時間が“流れ去るもの”から、アボリジニのドリームタイムのような一種の“場所”へと転換されることにほかならないからである。


句集『百年のキリム』(2016.10 金雀枝舎)所収。

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