相子智恵
影はみな主をもてり冬座敷 千葉信子
句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)より
「人や物は、みな影をもっている」というのとは真逆の発想で、ハッとさせられる。初めから作者の心を離れないのは影の方で、主ではなく影が主体なのだ。
主がいなければ影も生まれない。ここに描かれた影たちは、その事実の寂しさと哀しさを内包している。しかし、そうでありながら影が主体として語られた時、そこにわずかな浮遊感というか愉悦というか、そういう不思議な感じが私の中に立ち現れてきた。
「冬座敷」という季語が選ばれていることも大きい。室内の灯火と暖房と人々の気配に、寒さの中にぬくもりが感じられてくる季語である。掲句を読んで、あたたかな冬座敷の中であちこちに動く、寂しくて楽しい「影絵」を見ている気持ちになった。影が主で、主が影なのだ。
もしかしたら、この作者が影と主との間に見出してしまう距離感は、冬座敷に集う人と作者との心理的な距離感でもあるのかもしれない。
〈
雪に産みまた一人産み吾子とよぶ〉この句の吾子と母の距離感にも同じような寂しさと美しさがあるのではあるまいか。
吾子は産み落とした最初から吾子なのではなく、呼んで初めて吾子になる。その距離感と、まだ母から呼ばれていない雪の中の吾子の、何物も近づけないような清らかさ。
近いのに遠い、透明な距離感。その寂しくも浮遊する感じが美しいと思った。
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千葉信子の長男です。鑑賞文を読んで母が感動していました。感謝いたします。下記に母の言葉をお送りします。
返信削除「散文詩のような鑑賞文に感謝いたします。何度も読ませていただきました。相子様の読みの深さには驚きました。とりわけ「冬座敷」は私の心を見透かしたような文章でした。
「雪に産み」は難解だと言われます。「吾子俳句のひとつ」と片づける人もいます。確かに私は子供を詠んだ句が多いかもしれません。例えば、数年前に(お亡くなりになった)村上護先生から「知らぬ子もゐて焼藷(いも)の火の手かな」の鑑賞文をいただいた時にも、今回の「雪に産み」と同じような反応をされました。しかし、今回、相子様の素敵な文章に励まされました。ありがとうございます。」
千葉信子の息子です。この度は母の俳句を取り上げてくださりありがとうございます。下記が母の文章です。
返信削除「散文詩のような鑑賞文を文字通り何度も読ませていただきました。ありがとうございます。「冬座敷」の句の鑑賞は相子様が私の心を見透かしているようでした。「雪に産み」は難解な句だと言われます。中には「単なる吾子俳句だろう」片づける方もいます。10年ほど前のことですが、(亡くなった)村上護先生が「知らぬ子もゐて焼藷(いも)の火の手かな」の鑑賞文を書いてくださったとき、句友は「これは分かるけれども…………」と茶化したものです。しかし、今回相子様が丁寧に私の句を鑑賞してくださいました。心から感謝いたします。」