2016年12月27日火曜日

〔ためしがき〕 カレーの匂い 福田若之

〔ためしがき〕
カレーの匂い

福田若之


カレーというのは、どうやらとても匂うものであるらしいと知ったのは、小学校に入ってからのことだったと思う。僕はそれを知ったのであって、気づいたのではない。僕にとって、それを知ることは、すなわち、僕がひとの嗅ぎうるものを嗅ぎえないということを知ることでもあった。カレーとは匂いのするものだということは、僕にとっては、いまなおひとつの知識でしかない。

給食がカレーライスの日に、クラスメイトが、カレーの匂いがする、と言った。僕らの教室と給食室とは、階も違うし、直線距離でも数十メートルは離れているはずで、それなのに、今日の献立を正確に当てたそのクラスメイトは、きっと並外れた嗅覚の持ち主なのだろう、と思った。べつに、そうではなかった。

べつに、カレーの匂いだけが分からないというわけではない。高校時代は、山手線に乗ったとき、空いている席に座ってふと隣をみたら丸一年は着替えていないのではないかといった風体の人が座っていた、というようなことが少なくとも二回はあった。よく見ると、周りのひとびとがそのひとから距離をとるその仕方は、きれいな同心円を描いていて、ああ、臭いがするんだな、と思った。

僕のからだが、いったいどういう仕組みで匂いを感じないのかは、よくわからない。もちろん、一度、耳鼻科には行ってみた。子どものころのことだ。原因を特定できないまま、もしかすると治るかもしれないというので、ビタミンを注射された。下手な注射のせいで腕は腫れたが、匂いについては相変わらずだった。それ以来、この件で耳鼻科にかかったことはない。

幸い、匂いがわからないからといって、これまで、さほど困ったことはない。理科の実験でつくったアンモニアやら硫化水素やらは、ちゃんと鼻に痛みを催したので、刺激臭やら腐卵臭を感じなくとも、たぶん危険を察知するには困らないだろうと思っている。もちろん、硫化水素は腐卵臭がする、という事項を覚えておけば、腐った卵の臭いを感じなくとも理科のテストで点をとることはできた。それは、つまり、言葉と言葉のつながりを覚えることだ。僕は、自分が感じえないものについて、それを知っていることとして言葉にすることができる。できてしまう。

俳句における客観とは、つまるところ、これだと思う。金木犀は匂うのだ。みんながそう言うときには、ことばのうえで、金木犀は匂うのだ。だから、僕はきっと死ぬまでその匂いを感じることはないだろうけれど、金木犀が匂うことを前提とした句を書くことができる。金木犀を、匂いのする花として語ることができる。硫化水素の臭いについて、答案に「腐卵臭」と書くことができるように。それは、嘘をつくことではなく、客観的なことばに身をゆだねることだ。現に、僕は過去に何度か匂いの句を書いてきたし、それらの句のいくらかは、「共感」を得たように記憶している。たとえば、「カレーの匂い」というとき、その言葉が持つコノテーション(たとえば、庶民性であるとか、カレーという料理がどういう場に似つかわしいかといったことなど)を十全に理解していれば、「共感」を産むことはできるはずだ。そればかりか、僕はたとえば《夕焼やカレーの匂ふ坂帰る》(平井湊)といった句に「共感」することだってできる。この句には、郊外の住宅地の夏の風情がたしかにあり、住む町、帰る家への愛着が感じられる。カレーの匂いを感じることはできないけれども、この句から僕は多くのことを感じることができるし、カレーは遠くまで匂うということを知識としては知っているから、僕は、この句の「カレーの匂ふ坂」ということばを、どこかの家からカレーの匂いが漂ってきているのだろう、と理解することができる。嗅覚の語彙をめぐる僕のこうしたありようは、まわりのひととうまくやっていくうえでも必要なことだった。匂いについての語り口を習得することは、ひとがそれらを嗅ぐしぐさをまねながら、自分には嗅げないものをあたかも嗅げているかのようにとりつくろう仕方を覚えることでもあったように思う。

その一方で、いま、僕は、僕にとってはあくまでも金木犀は匂わない花なのだ、といつでも言うことができる。匂う花があるのではない、花に匂いを感じると言うものがいるだけだ。ならば、僕の書く匂わない金木犀は、みんなの書く匂う金木犀と比べて、すこしも嘘ではないはずだ。そして、僕が匂わない金木犀を眺めながら感じたことの一切は、みんなが金木犀に匂いを感じるということによって否定されはしないはずだ。主観は、けっして、客観に比して劣るものではない。ここには二通りの真実があるのだ。そしてまた、二通りの誠実さがあるのだ。

2016/10/30

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