2017年1月10日火曜日

〔ためしがき〕 「そもそも抒情って何だ?」 福田若之

〔ためしがき〕
「そもそも抒情って何だ?」

福田若之


これが抒情だ、と思う」と書けば、当然、次のような問いが返ってくる。
けれど、「そもそも抒情って何だ?」というこの問いに、僕は答えるわけにはいかない。なぜか。

それは、この問いが「抒情」を《そもそも何かであるもの》として規定してしまっているからだ。「抒情」が《そもそも何かであるもの》だとすれば、そのとき僕らはもはや「抒情」をそのかけがえのなさにおいてその都度とらえなおすことはできなくなるだろう。

「抒情」は徹底してその都度なされる。だから、「抒情」について「抒情とは何か」と問うことはできない:「抒情」は物的ではない;問いうるのは「どう抒情するのか」であり、この問いはつねに個々人の身体と切り離しえない:「抒情」は動的だ。


僕は、「抒情とはこれだ」とは決して書かないために、意図的に「これが抒情だ、と思う」と書いたのだった。「そもそも抒情って何だ?」という問いに答えることは、「抒情」を一般化し、それに対して概念としての地位を与えることに他ならない。それはまったく抒情的な仕草ではない。僕はこの問いに答えることができない。

2016/11/8

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