関悦史
春眠のところどころに水溜り 鈴木多江子
この「水溜り」は春眠のなかで見る夢のようでもあり、逆に覚醒を指しているようでもある。眠りのなかにいるのか、それとも、ときどき目が覚めて外に出てしまっているのかは、何とも定めがたい。
「水溜り」をそうした喩としてではなく、もっと即物的に捉えることもできる。その場合、「ところどころに水溜り」は、在る。これは外界のことだ。個人の眠りのうちの夢や入眠幻覚ではない。そして、その外界がそっくり「春眠」と名指されることになる。世界は全て「春眠」のうちにあるのだ。「水溜り」の水もただの水ではなく、それ自体、意識を持った何ものかのように見えてくる。
そうした汎生命的な妖しげな生気を帯びつつも、水溜りはあくまで物としての水の重みを手放さず、地を這うように溜まり続ける。ここには「春眠」の漠然たる統合性からは、いささか食み出すものがある。水の側から見ても、水が果たして「春眠」の内にあるのか、外にあるのかは判然とせず、ささやかな違和を成しているのだ。句の語り手と「春眠」と「水溜り」は、互いに包摂しあうのか排除しあうのか、わからないまま奇妙にリアルなものであり続けるのである。
この奇妙なリアルさは「水溜り」の重さが身体感覚に直結していることによるのだろう。それは覚醒の瀬戸際でもある。その破れ目に接していることにより、かえって「春眠」の自足的な完結性と、そこにやすやすと入ってしまう、われわれの生の不思議さが感じられるのである。
句集『鳥船』(2016.9 ふらんす堂)所収。
●
0 件のコメント:
コメントを投稿