2017年3月1日水曜日

●水曜日の一句〔瀬山由里子〕関悦史


関悦史









兄に似た狐横切る花野風  瀬山由里子


この句のポイントは「花野風」の「風」にある。あえて改悪して《兄に似た狐横切る花野かな》としてみたときの句の沈滞ぶりと見比べればそれは明らかだ。

つまり「兄」と「狐」が似ているだけではなく、その二者は類似を介して「風」にまで通じているのである。季語としては「狐」(冬)と「花野」(秋)の季重なりということになるのだろうが、枯れていないのだから花野が主で秋か。その花野を風が吹き渡る。尋常の風ではなく、途端に妖異の世界が現れる。兄が狐とも、花野を吹き渡る風ともつかない存在となれば、そのような兄を持つ語り手自身も世の常の人ではない。

とはいうものの、この句の語り手自身は、妖異性や虚空性を身に帯びるとはいえ、「兄」とともにただちにあやかしに変じて走り去るわけではない。「兄」は「行く」のでも「来る」のでもなく、ただ遠心的に眼前を横切っていくだけだ。語り手と兄との間には、一抹通じあうものがありつつも大きな懸隔がある。「兄」に似た「狐」(「狐」の相貌を帯びた「兄」、あるいは「兄」であったかもしれない「狐」……)は、なかば既に花野の「風」にまで変じ、語り手のことを意識し得ているかどうかすら定かでない。

語り手にとっても「兄」は既に「風」のようなものだ。この世で深い縁あった者同士の最果ての相はこのようなものであるのかもしれず、一句の情感もそこにかかっている。ものさびしさが常の世を超えることで或る得心に至ってもいるのだが、その図(フィギュア)全てが儚さに解消され、同時に非人称的な華やぎの地(グラウンド)として揺らぐ「花野」が現れる。「花野」は生の感触を引き出す場として句のなかにあるのである。

なお、この句は句集ではなく、著者没後にまとめられたエッセイ集に収められた俳句「猫町」八句のうちから引いた。


『織と布そして猫とヴェネツィア』(2017.3 鬣の会)所収。

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