〔ためしがき〕
波の言葉5
福田若之
俳句文学館で資料に当たっていたら、偶然、こんな一節を見つけた。
俳句文学館で資料に当たっていたら、偶然、こんな一節を見つけた。
躍進する明治の息吹きが新聞「日本」「小日本」を、後には雑誌「ホトトギス」を生む事により、全日本の俳人は新しい靱帯によつて結ばれた。因習や伝承を乗り越えて、「郵便」と「活字」は普ねく広く俳人をして自己を飛躍せしめる時に遭遇せしめた。「郵便」と「活字」の婚姻――若いふたりの結婚は誰もがうらやむものだったろう。年月を経て、ふたりは誰もがうらやむ素敵な老夫婦となった。新聞と雑誌は、このふたりのあいだに生まれた子どもたちだったのだ。そして、「郵便」と「活字」の挙式を彩った俳人たちの飛躍。想像してみてほしい、俳人たちが無数の郵便物となって因習や伝承の向こう側へ物理的に飛躍していく姿を。
(小田武雄「正岡子規研究(三)」、『天の川』、通巻第270号、1942年9月、22頁。引用の際、漢字はすべて新字に改めた)。
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「プレーンテキスト」はほんとうにテキストだろうか。それが触れ得ないものであることは明らかだ。てざわり(texture)のないテキスト(text)、幽霊の着ている服――幽霊も服も半透明なのに、幽霊はどうしてあの服で裸を隠せるのだろう――僕はどうしても信じることができない。
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筆跡だけが、言語がまるまる失われてもなお、生きながらえる。テキストに書き手がいたことの証として最後に残るのは、思想でも固有名でもない。筆跡だ。そして、筆跡にはてざわりがある。
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僕は、まちがっても、不滅の筆跡などというものがありうると信じているわけではない。むしろ、筆跡はもっともはかないもののひとつだ。だからこそ、僕は筆跡のことを信じている。
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僕のテキストの表面で、かまきりが他のかまきりのほかに何を食べることができるのか、どうやって生きているのか僕は知らなかった。おそらく、あれは人を食っているんだ。この仮説が正しければ、僕が句に書くかまきりは、自らをとりまくものによく擬態し、そうやって騙した相手を自らの餌にしているということになる。こんなふうに書けば、かまきりは、僕たちが普段「かまきり」と書いてあればその虫を意味するものと思い込んでやまないあの虫を、いよいよほんとうに意味しているかのようだ。
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言葉が植物であるとすれば、意味とは光合成のことだろう(葉緑体ではなく)。まなざしに照らしだされたページのうえでだけ、言葉は意味する。そして、植物が光合成を持っているわけではないのと同じように、言葉は意味を持っているのではなく、意味するのだ。
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2017/3/12
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