〔ためしがき〕
波の言葉7
福田若之
俳句における季について考えるうえで、暦というものが、すくなくとも近代以降、まぎれもなく国家的なものでありつづけていることは、もうすこし念頭におかれてもよいはずだ。有季の立場からも、無季の立場からも、その他の立場からも。
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俳句における季について考えるうえで、暦というものが、すくなくとも近代以降、まぎれもなく国家的なものでありつづけていることは、もうすこし念頭におかれてもよいはずだ。有季の立場からも、無季の立場からも、その他の立場からも。
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「風景――パリは、遊歩者にとっては本当に風景となる。あるいは、より厳密に言うならば、遊歩者にとってこの都市は弁証法的な両極に分かれる。この都市は、風景としてみずからを遊歩者に開き、部屋として遊歩者を包み込むのである」(ヴァルター・ベンヤミン「遊歩者の回帰」、『ベンヤミン・コレクション4――批評の瞬間』、浅井健二郎編訳、筑摩書房、2007年、369頁)。この一節に述べられていることは、おそらく、芭蕉が『おくのほそ道』の冒頭部に述べていること、ロラン・バルトが『記号の国』の最後の断章に述べていることと通じている。言ってみれば、移動式住居ならぬ居住式移動――だが、この言葉は正確ではないのだろう。期待されているのは、移ろうことと棲むことのあいだに主従関係を秩序付けることではないはずなのだから。
2017/3/22
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