関悦史
夢精てふ言葉は美しき桃の花 山中正巳
夢精という現象が、ではない。言葉「は」である。
この語が何を指すかを知らなかったとして、その内容を想像し、夢の精と取った場合、たしかにファンタジー的な美しさを持った言葉と捉え得るだろう。
ただしこの句は、ひるがえってその実態の汚さを皮肉に笑うことが主眼といった作りにはなっていない。「桃の花」が情調を決めており、その桃色が句の方向を夢精自体から逸らし、くつろげさせ、夢精ひいては生そのものまでをも桃源郷的な華やかな明るさに染め上げていくからである。
実態としての夢精の情けなさ、汚さも、そのなかに巻き込まれ、肯定されていく。遠く離れて見れば、すべてが美しく見える。その遠さを組織しているのが季語の「桃の花」と「言葉は」という迂回路なのであり、この句は言葉と実態のずれに興じて事足れりとしている句ではないのだ。
かくして軽い皮肉さや余裕の向こうに、若い身体が桃の花そのもののように浮かび上がる。修辞や詩形式を扱うとはそもそも間接的なわざで、その間接性、倒錯性を介してこそ浮かび上がってくる穏やかな肯定が一句を満たしている。
句集『静かな時間』(2017.4 ふらんす堂)所収。
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