関悦史
一本の線より破れゆく熟柿 山口昭男
エロティックなようでもあり、不穏なようでもあり、何かが開示される啓示的瞬間のようでもある。
熟柿といえば〈いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥〉のように、破れやすさをはらみつつも、全き姿のままに描かれる句が多い気がする。食べられたり鳥につつかれたりしている場面を詠んだ句をべつにすれば、みずから破れていく局面を掬った熟柿の句というのは、案外少ないのではないか。
その破れも、この句では一本の「罅」や「裂け目」ではなく、一本の「線」からはじまり、広がってゆく。三次元の具体物に走る裂け目というよりは、それを絵に描くときの二次元的に抽象化の度合いを上げた認識法が、具体物たる熟柿にじかに貼りついているのである。その抽象化がはさまっているからこそ、逆に「熟柿」の物体としての存在感が際立ってくる。
物と認識のはざまを高速で揺れ動きながら、熟れきったゆえに自壊してゆく熟柿は、現前と絵画的な再表象の境目で引き裂かれてゆきながら、そのこと自体を深く愉しんでいるようで、在ること自体の恐怖と快楽が、あまり観念化されることなく、静かに、しかし激しく句に書きとめられている。
句集『木簡』(2017.5 青磁社)所収。
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