2017年5月31日水曜日

●水曜日の一句〔安井浩司〕関悦史


関悦史









燃え果てるまで藁人形に籠るひと  安井浩司


藁人形といえば丑の刻参りに用いられる、他人を呪殺するためのそれがまず思い浮かぶが、副葬品や厄除けとして使われるものもある。

ちなみに作者、安井浩司が住む秋田には「鹿島様」と呼ばれる巨大な藁人形があり、これは村の中の悪疫を負わせて河や海に流したり、地域によっては燃やすところもあるらしい。この句のように、中に人が籠れるとなればかなりの大きさで、五寸釘を打ちつける呪具としての藁人形よりは、「鹿島様」のようなものを思い浮かべたほうが適当か。

しかしこの句はもちろん実際の行事をそのまま詠んだものではないのだし、発想のもとにそうした風習があったということを確認することさえ不要とも考えられる。この句で藁人形に籠っている人は、民俗的慣習として、共同体の了解のもとに籠っているというよりは、荒々しいまでに静謐で孤独な単独者ぶりをあらわにして、燃え盛る藁人形に自発的に籠っているように見えるからだ。

ただの人ではなく、燃やされ、追い払われる悪疫そのものを「ひと」と感じたとも取れる。その「ひと」の存在を感じとってしまった語り手も、やや追い払われる側に引き寄せられ気味のようだ。語り手は火を止めるでもなく、あるいは逆に積極的に火の手をかきたてて「ひと」を追い払うでもなく、ただ凝然とその焼失に立ち合うのみである。感情としては、悲しみとも満足ともつかないものが一句を満たす。

おそらくその感情は、句を構成する言葉を手探りで探りあて、組み上げていった結果としてあらわれたものであり、初めからそういうものを描き出すべく書かれた句では、これはない。燃え果てるまで藁人形に籠るひととは、そのようにして句の成立とともに見出された「ひと」であり、その「ひと」は藁人形のなかだけではなく、句を作っては送り出す工程そのもののなかにも籠っている。その意味でこの句は、句作という行為自体を詠んだパフォーマティヴな句でもあり、批評性に富んだ句といえるのだが、それにしてもそうしてここに現れた自己犠牲じみた「ひと」の形象の、なんと深く情動的であることか。


句集『烏律律』(2017.6 沖積舎)所収。

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