2017年6月21日水曜日
●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史
関悦史
オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節 長谷川晃
オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。
特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。
シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。
この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。
そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。
いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。
「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。
一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。
句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。
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