関悦史
原爆ドームの奥を撮る子や苔の花 樫本由貴
報道写真などで目にすることが多いのは原爆ドームの外観、ことにその通称の由来となったドーム部分ばかりで、遺構のなかやその奥の光景というのは、現地に行かない限りなかなかはっきり見る機会はない。
この「子」も滅多に見る機会のない物件に近づき、位置を変えつつ、写真になりにくい構図のものまで何枚も撮ったのではないか。そのようにして、建物の、歴史の、災禍の奥へ奥へと引き込まれる子を、柔らかく、地表と肉体の次元に結びつけておく「苔の花」の慎ましい優しさが素晴らしい。
奥があれば覗き込みたくなる。この子の行動は、おそらくそれだけのありふれたアフォーダンスに則ったものでしかなく、それ以上の目的はない。現在残されている建築の奥をいくら覗き、撮ったところで、原爆炸裂時の模様がわかるわけではない。この子はべつに原爆という未曽有の大規模な蛮行の表象不可能性に迫るべく、カメラを奥に向けているわけではないのだ。そもそも奥には何もない。後でネットに上げるネタとしか思っていないかもしれない。だがそこに厳然と残る現物、建築物件の力は、たしかに何十年か前、ここを原爆の爆風が吹き抜けたのだということを想像させずにはおかない。
そうしたこの子の意識、無意識に起こっているさまざまな波立ちを、句の語り手は後ろから眺め、ともに感じ取っている。この子を、安全な現在の地表という場に引きとめる静かな「苔の花」は、この語り手の化身のようでもある。
「週刊俳句」第537号(2017年8月6日)掲載。
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