2017年11月9日木曜日

新シリーズ●木曜日の談林〔西山宗因 〕浅沼璞



浅沼璞







里人のわたり候かはしの霜  西山宗因

『懐子』&『境海草』(1660年)所収

談林俳諧といえば宗因流、宗因流といえば謡曲調、謡曲調といえば掲句が発端、というのが通説である。しかし掲句は宗因流の全盛期・延宝年間(1673-81)をさかのぼること十数年の作。ともすれば過渡期の徒花として扱われがちな談林だが、十数年間という揺籃期がちゃんとあったのだ。あなどれない。

さて謡曲調は「謡曲取り」ともいうように、ようは(シャレではありません)謡曲の詞章を原テキストとしたサンプリング。掲句の上五・中七は謡曲「景清」の一節そのままだ。けれど原典では「わたり」=「あり」の尊敬語。それを文字どおり「渡り」とシャレのめし、「渡り」→「橋」と連想を広げたってわけだ。さらにそいつを「橋の霜」という歌語へともっていった。さすが宗因、もともと連歌師なだけはある。しかも御丁寧に「宇治にて」と前書があり、宇治川、宇治橋といった歌枕までシャレのめしてる……なんてことは後で調べたり考えたりしたことで、最初にこの句を目にしたのは芭蕉七部集(岩波文庫版)中の『阿羅野』でだった。「旅」の部立に〈ひとつ脱(ぬい)で後におひぬ衣がへ〉の芭蕉句などと併載されていた。

『阿羅野』は俳諧の古今集をめざしたアンソロジーで、朗詠集的な部立に蕉風以前の連歌や他門の発句もまじってる、くらいの予備知識はあったが、「旅」のパートで蕉門俳諧といっしょ(しかも前書はカット)となれば、どーしても旅人目線で鑑賞したくなる。橋上の霜にのこる足跡を見て地元の民の生活に思いを馳せる旅人のアングルである。旅情と言ってしまえばそれまでだが、漂泊する者が定住民に感じる懐かしみ、みたいなもので、そーなってくるともう(いま読みかえしてみても)謡曲調やら歌語やらの足跡などほとんど見えはしない。

けっきょく『阿羅野』の編集にまんまとヤラれたってことなんだろうな、たぶん。

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