2017年12月5日火曜日

〔ためしがき〕 書きものをめぐる喩え 福田若之

〔ためしがき〕
書きものをめぐる喩え

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。

この文章における「空気」あるいは「空気感」という言葉のあらわれようは、僕にとって、とても喜ばしいものだ。書きものを流れる風、あるいは、一陣の風としての書きものということを、折にふれて考える。この喩えが、いったい、何を言い留めようとしているのかということを。書きものに風を感じるということそれ自体はたしかなのだが、その喩えで何を言わんとしているのかを僕はうまく説明することができないでいる。ついしばらく前にも、野見山朱鳥の書いた句の群れを前にして、僕はそれを感じたばかりだ。


「響きの尾の追跡」に話を戻そう。この評は、まさしく喩によって、福田若之『自生地』(東京四季出版、2017年)と捉えようとしている。タイトルの「響きの尾の追跡」という言葉については、こう書かれている。

もちろん、一句の自立性を放棄したわけではないし、要所に心ふるえる一句があるのも事実である。しかし、響きの尾の追跡とでも形容しないと取っかかりがつかめないほど、連作風につづく圧倒的な句の数が、この一冊には詰めこまれている。(「響きの尾の追跡」、39頁)
形容すること。それも喩によって形容すること。それが、一冊の本を読むことの取っかかりになる。そのうえで、『自生地』に記された「よしきりの巣」という喩と「結晶する」という喩が並べられる。
雑然とからまりあうスパゲッティは、まるでよしきりの巣を思わせる。僕は、よしきりの巣のような句集を編みたいと思う。それは、僕自身の、あの懐かしい古巣の記憶にも通じるものになるだろう。(『自生地』、190頁)

僕は句集を編むことばかり考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。 (同前、215頁)
「響きの尾の追跡」では、これらふたつの記述に矛盾のようなものを見出す――「「よしきりの巣のような句集」「結晶させたかったのだ」――どっちなんだ? とつっこみたくもなるが、結果をみれば「よしきりの巣」となったことは明白である」(「響きの尾の追跡」、39頁)。『自生地』は「よしきりの巣」だとする読みを、僕は否定するつもりはまったくない。むしろ、僕が多少のもどかしさを感じながら読んだのは、次の一節だった。
この人は五七五の定型を、紙の裏側から息づかせるような、独特の不思議なセンスをもっていると、ふと思う。それゆえ、そうであればなおさら、句集として提示するのだから収載句をもっと絞りこんで一冊を「結晶」させてほしかったと、つくづく感じる。 (同前、40頁)
「五七五の定型を、紙の裏側から息づかせる」、すばらしい喩だ。だから、それだけに、「よしきりの巣」と「結晶する」ということをめぐって、ひとつの可能性が見落とされてしまったことを、僕は残念に思う。それはすなわち、句集が、よしきりの巣のようなものとして、結晶する、という可能性だ。喩としてなら、それは大いにありうることのはずなのだから。 そして、これは、句集を、よしきりの巣のようなものとして、編むこととは、まったく違っている。この認識の生成変化は、『自生地』において、ひとつのターニングポイントになっている。

整理しておこう。『自生地』において、「結晶する」ということに背反しているのは、「編む」ということであって、「よしきりの巣」ということではない(そう僕は読む)。

もちろん、この喩と喩の関係の構築こそが失敗に終わっているということはあるかもしれない。けれど、僕は「響きの尾の追跡」の次の一節を読むとき、それがたとえ失敗であるとしても、単なる失敗ではなかったと思うのだ。
〔……〕この一冊は、ある一定量の句群を一単位として、それらが輻輳し、錯綜し、流れ流れてゆく、トータルで大きな連続体――読み手にはどうしたってそう印象づけられる。(同前、39頁)
流れ流れてゆくものからなるよしきりの巣というものがあるのだとしたら、結晶するよしきりの巣があったって、いいじゃないか。僕はそう思う。

2017/12/5

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