2018年1月9日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド2 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド2

福田若之・編


ミスタ・ブルームはがちゃりがちゃりと鳴り響く騒音から抜けだして、廊下を通り、階段の踊り場に出た。あっちまで電車に乗って出かけても、留守ってこともある。まず電話で聞くほうがいい。
(ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズI』、丸谷才一ほか訳、集英社、2003年、304頁)


ブルームの存在は「電話‐内‐存在」〔電話‐への‐存在〕(être-au-téléphone)なのだ。彼は多種多様な声ないし留守番電話につながれている。彼の現存在(être-là)は「電話‐内‐存在」であり、ハイデガーが現存在(Dasein)を死に向けられた存在として語ったのに倣えば、「電話‐に臨む‐存在」(être-pour-le téléphone)である。こんなことを言ったからといって、私は言葉を弄んでいるのではない。事実、ハイデガーのいう現存在もまた呼びかけられた存在なのだから。『存在と時間』がわれわれに語っているように、そしてまた、友人のサム・ウェーバーが私に気づかせてくれたように、ハイデガーのいう現存在はつねに、呼びかけ(l'Appel, der Ruf)、それも遠方から到来する呼びかけを通じてしか自分自身に達することがないのであって、かかる呼びかけは必ずしも言葉を経由するわけではなく、ある意味では何も語らない呼びかけなのである。
(ジャック・デリダ「ユリシーズ グラモフォンーージョイスが「然り」と言うのを聞くこと」、ジャック・デリダ『ユリシーズ グラモフォンーージョイスに寄せるふたこと』、合田正人、中真生訳、法政大学出版局、2001年、95-96頁)



電話のモバイル化とは、じつは技術的な過程ではない――それは文化的な過程である。問題はそういう機器を発明することではなく、われわれみんなにそれを採用させること、つまりそれが必要だと感じさせることなのだ。なぜなら、もちろん、モバイル化される必要がある対象というのは、ほかならぬわれわれなのだから。
(ジョージ・マイアソン『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』、武田ちあき訳、岩波書店、2004年、8頁。太字は原文では傍点)


世界っていう言葉がある。 私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた。
(新海誠監督『ほしのこえ』、2002年、日本)

2017/12/24

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上の四つの断片をメモしてから二週間近く経とうとしているが、さらにもうひとつの断片を、このページに引き写しておくことにしたい。この断片は、ここに書いておかないと、なぜそれを抜いてきたのか自分でも思い出せなくなってしまう気がするからだ。
河童もお產をする時には我々人間と同じことです。やはり醫者や產婆などの助けを借りてお產をするのです。けれどもお產をするとなると、父󠄁親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前󠄁はこの世界へ生まれて來るかどうか、よく考へた上で返󠄁事をしろ。」と大きな聲で尋󠄁ねるのです。
(芥川龍之介『河童』、『芥川龍之介全集』、第8巻、岩波書店、1978年、315頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)
ところで、河童という名は、この作品において、声に出して呼ばれることが期待されている。というのも、冒頭に掲げられた『河童』という題に添えられるようにして、「どうかKappaと發音して下さい」という文言が置かれているのである(同前、306頁)。「發音して下さい」。それは、メルヴィルの『白鯨』の第一章の本文が、その語り手の「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう」という言葉からはじめられていることにも、すこしだけ似ているかもしれない(ハーマン・メルヴィル『白鯨』、上巻、八木敏雄訳、岩波書店、2004年、55頁)。

2018/1/7

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