2018年3月27日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド13 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド13

福田若之・編

ベルは「音声送信器と名づけて特許局に書類を提出した。一八七六年二月一四日の午前一一時のことである。ところが電信機のライバル、エライシャ・グレイがたった二時間遅れて、電話機の特許を出願したのである。「電話王ベルの二時間の幸運」と人々は呼んだが、グレイの方が先に電話を発明していた、と言われ続けたのはベルの電話が未完成だったからだ。文化史にある発明者の名や年月には、さほど意味がない。発明の記録は競争者を列記しなければ価値がないのである。
(木村哲人『発明戦争――エジソンvs.ベル』、筑摩書房、1994年、57-58頁)



アレクサンダー・グラハム・ベルは長い生涯のあいだに興味のあることを数多く追求したが、青年時代から変わらず意欲をかき立てられる関心事がひとつあった。職業を訊かれると、彼はきまって「聴覚障害者の教師」と答えたものだ。ベルの基礎科学に対する最大の貢献は電話の発明ではなく、聴覚障害への取り組みだと考える人は少なくない。ベルは聴覚障害について重要な研究をおこなって聴覚障害者の利益を最大限にしようと努めただけでなく、その人生のあいだに約五〇万ドルを聴覚障害者のために投じたのだった。
(ナオミ・パサコフ『グラハム・ベル――声をつなぐ世界をむすぶ』、近藤隆文訳、大月書店、2011年、117頁)



たとえば、「電話がない時代」から「電話がある社会」への移行がもたらした変化にくらべれば、「電話がある社会」になってからの変化は――それが電話風俗にみられるような新奇さをともなっていたとしても――周辺的なものだとする見方がある。このような立場は、何かにつけてマクルーハンを引用する昨今のメディア論に共通して見いだされる。メディアはそれまでになかった「身体性」(一口でいえば「ノリ」)を切りひらき、感覚を変容させる……云々。しかしながらシステム理論的な立場からすれば、こうした見解はそれ自体、メディアに固有の「ノリ」をつくりだすのに役立つ「神話」にすぎない。つまり、そうした物言いは、メディアを「分析する」言葉であるとは言えない。説明しよう。
 メディアにはたしかに固有の「ノリ」があるが、それが身体におよぼす効果はいかなるものであれ「社会的文脈」の関数である。たとえば、電話コミュニケーションが対面的コミュニケーションとの間にどんな差異を構成するのかは、「電話であること」によって――つまり電話というメディアによって――決まるわけではない。わたしたちの例が示しているのは、両者の差異を極大化する社会的文脈もありうるということだ。同様に、電話風俗が参加者を「電話共同体」に繰り込むようにはたらくのか、また空間的な距離を感覚的に縮めるようにはたらくのかどうかも、すでにみたように、どんなコミュニケーションがメディアの文脈を構成しているかによってちがってくるのである。
 こうした例をふまえていえば、メディアが重要なのは、「社会的文脈」の変化を固有に「ゆがんだ」かたちで増幅する装置だからである。その「ゆがみ方」は、たしかにメディアごとに独特の様相を示すかもしれない。しかしそうした独特の様相の現われ方もふくめて、システムと環境の差異を――電話的コミュニケーションとそうでないものの差異を――構成しているのは、メディア自体ではなく、そうしたメディアを要求し、またあたえられたメディアを解釈する「コミュニケーションからなる社会的文脈」なのだ。
(宮台真司『制服少女たちの選択――After 10 Years』、朝日新聞社、2006年、102-104頁)

2018/1/9

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