〔ためしがき〕
髙田獄舎と言葉の《変な‐文字‐T‐シャツ性》
福田若之
「顔面の範囲」、「軽度の「平成」」、「この暴力!」、「コ、コ、コンサバティブ」、「重層労働」、「疑耶亜」、「棺もデブ」、「標準の人間の穴」、「俺の誠実」、「詩神爆発」、「ゴキブリを想う」、「教授は機械」、「痣の本籍地」、「潜水艦的」、「定価の自由」、「だれもが犬のような祭」、「(これでも学士)」、「〈よき性徒〉」、「いいから燃やせ」、「意味ない疲れ」、「俳人の現物」、「音楽なきマネキン」、「善意拒絶」、「機械逸脱人間」、「コカ・コーラ不足」、「退化を続ける」、「連帯拒否」、「揚羽蝶駆除後」、「白い鳥=人体」、「虫歯の集合体」、「懲罰中」、「発光不可能」、「ドラマ中毒」、「私欲尊重」、「自由の管理者としてのメスゴリラ」そして「愛と馬糞臭」――これらは、どれも髙田獄舎の句から拾った断片だ。
獄舎の句を読んでいると、ときどき、漫画やアニメのキャラクターが着ている変な文字Tシャツのことを思うことがある。たとえば、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』に登場するじんたんこと宿海仁太の「地底人」、「くま殺し」といった文言がプリントされたTシャツや、『聖☆おにいさん』に登場するブッダとイエスの「仏なんだもの」、「善きサマリア人」といった文言がプリントされたTシャツ、あるいは、『天体戦士サンレッド』の主人公であるサンレッドの「ほほえみ返し」、「トリは足が早い」、「タラバガニの一番足」といった文言がプリントされたTシャツといったものに通じる何かをふいに感じることがあるのだ。
上に列挙したのは、どれも、獄舎の句のうちで、僕にとって、いわば《変な‐文字‐T‐シャツ性》を帯びていると感じられる文言だ。けれど、もし漫画やアニメのキャラクターの着ているTシャツに獄舎の一句をまるごと書きこんだとしたら、句の良し悪しとはまったく別のこととして、おそらくあまりにも過剰な印象を与えることになってしまうだろう。たとえば、「(これでも学士)」、「コカ・コーラ不足」あるいは「愛と馬糞臭」といった文言がプリントされたTシャツというのはギャグ漫画の一登場人物のコミカルあるいはシュールな服装としていかにもありそうだが、《(これでも学士)鳥の骸を跳び越え酔って》、《コカ・コーラ不足の国家を扇動する夜露》あるいは《リムジンで去ろう愛と馬糞臭の過疎の町》といった句が印刷されたTシャツとなると、そうしたキャラクターの服装として気の利いた感じを与えるとは到底思えない。どうしてだろうか。
もちろん、作者自身、おそらくTシャツになることを意図して句を書いているわけではないだろうから当然のことに思われるかもしれないが、この場合、作者の意図は問題ではない。句が現にそのようになっていることを説明するためには、現に書かれた言葉の性質をもとにして語る必要がある。これはあくまでもテクストの表面、織物の表面の問題なのだ。
あらためて問おう。獄舎の句の文言には漫画やアニメの登場人物が着ているTシャツに書きこまれていてもおかしくないと感じられるものが複数あるにもかかわらず、その文言を含む句の全体がそうでないのはなぜか。思うに、その理由は、こう表現してよければ、獄舎の句それ自体がすでに変な文字Tシャツを着たキャラクターのような風情で立ち現れているからではないだろうか。
分かりやすい例として、《コンビニの世紀コンビニで母殺され》を挙げることができる。「コンビニの世紀」はTシャツの言葉だ。「コンビニで」は、それに合わせたジーンズのようにも感じられる。だが、「母殺され」、ここに句の顔貌がある。表情がある。だから、《コンビニの世紀コンビニで母殺され》という句をまるごと印刷したTシャツを着たキャラクターというのは、喩えるなら、「父と私と精霊」という言葉が印刷されたTシャツを着た『聖☆おにいさん』のイエスの全身像が印刷されたTシャツを着たキャラクターというのと同じくらい、度を越えた過剰さの印象を与えることになるだろう。
森村泰昌は「美術を「着る」」ということを言っているが、もし言葉を「着る」ということが俳句の主題となりうるとしたら、獄舎の作品はまさしくそのことに触れているように思われる。Tシャツは、1950年代に『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドや『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンを文化的なアイコンとした不良少年たちのあいだで流行し、その後、60年代後半に起こったヒッピー・ムーヴメントや70年代半ばに生まれたパンク・カルチャーにおいても、若者たちの反抗心や自由な精神を象徴するものとみなされることになる。獄舎の句が衣服として何よりもまずTシャツを思わせるのは、こうした歴史的な観点からしても、どうやら理由のないことではなさそうだ。
2018/4/25
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