浅沼璞
大節季まで言ひ延べて松 西鶴(前句)
やうすきけ花は都の相場物 同(付句)
『大矢数』第十(延宝九年・1681)
花前(冬)から花の座(春)への季移り。
一年の貸借決済をする大節季(おほぜつき)つまり大晦日までアレコレ支払いを言い逃れ、年明けには相場物(価格変動のある商品)の様子(市況)を聞け――そんな『世間胸算用』的な俗文脈がすけてみえる。
松→花の雅語的付合はいっけん添え物のようだ。
雅語に対する俗語の優位性を体現した西鶴は、
〈人の家にありたきは梅・桜・松・楓、それよりは金銀米銭ぞかし〉
と後年『日本永代蔵』にも記した。
この観点からすれば「不易」の花や松は、金銀米銭(相場)という「流行」の、その付けたりと化していると言っていいだろう。
俗文脈が雅文脈を方便としているわけだが、ことはそう単純に終わりはしない。
アクションしたものは何がしかのリアクションを覚悟しなければならない。
ほぼどんな場合も相互媒介性からは逃れられない。
松(待つ)に新年、とくれば門松。用材としての松の相場も高騰するというもの。
よって前句と付句の狭間で「松」は雅語と俗語の両面的価値をもつこととなる。
伝統的な松の概念が、用材としての即物性をまとう。
雅と俗の相互媒介性――まさに近世であり、談林である。
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