2019年2月16日土曜日

●土曜日の読書〔はだかであること〕小津夜景




小津夜景







はだかであること


ある日、夫が仕事から帰ってくるなり「あのね、いま、家の前の公道に全裸の女の人がいたよ」と言った。

「ええ! 変態?」
「うーんわかんない。なんだったんだろう…」

公道の全裸といってもいろいろだ。いきなり物陰から飛び出してくる種族。とりあえずガウンは着ている種族。ラリって心ここにあらずの種族。これからの季節に多いのは、春の陽気が引き金になったとおぼしき種族だろう。暖かくなると虫のごとく湧きいずる彼らに遭遇しそうな日を、ぽかぽか注意報の日、と我が家では呼んでいる。

と、人ごとのように書いているが、かくいう自分も昔、公道で全裸になったことがある。なぜゆえにマッパになったのかというと、同調的な学校世間に心の底から嫌気がさしたからだった。校門を出て、信号をひとつ渡ったあたりですべてが完全にアホらしくなり、とりあえずパンツ一丁になったのだけれど、しばらく歩いているうちにパンツをはいていてはさほど革命的ではないことに気づき、ぜんぶ脱いだ。そしてそのまま誰に呼び止められることもなく、家までの2キロの道を歩き切ってしまった。

あと全裸といえば暗黒舞踏が思いうかぶ。が、落ち着いてよく考えると、彼らは紐ビキニをはいていた。ジェントルマンである。あの土方巽も、そのイメージに反してちゃんと服を着ている。むしろ土方においてフィジカルな意味で丸裸なのは、身体ではなく言葉のほうかもしれない。
ところがわたしを笑う人が居るのよ。えぇ。だからそれは死骸だって、ねえッ、それも家のなかでわたしのことを笑う奴なんかみんな死骸だってね、わたしそういってやったの。えぇ。なんていって、わたしなんか、なに、生れたときからね、ぶっこわれて生れて来てるんだからね。ええ。そんなことちゃんと判ってるよ。いわれなくったって判ってるんね。(「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」)
アンダーグラウンドなどがすべて風俗化していくのも、外部のせいじゃなく、やっている人間たちの問題じゃないかと思うんですね。すぐ自分の外側に砂漠を設定して、水もないなどと言う。そんな事を言う前に、自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか。自分のからだにはしご段をかけて降りていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところが、みんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね。(「肉体の闇をむしる…」)
『土方巽全集1・2』(河出書房新社)には「文学」やら「芸術」やら「社会」やらといった概念を少しも彷彿とさせない粘菌のような言葉が生き生きとひしめいている。言い方をかえれば、彼の言葉は高次の意匠を纏っていない。「文学」や「芸術」や「社会」のような高次の意匠は私たちの営みを規定する検閲官として、つねに後から、かつ外からやってくるが、そうした権力の包囲をのがれた場所で土方は語ろうとしているわけだ--ひっきりなしに自分の肉体の中の井戸水をのみ、これまた非常に粘菌じみたその闇をむしって。

ところで、これは余談だけれど、私は俳句についてもおおむね似たようなことを考えている。すなわち、自分の「俳句」が「文学」という名の帝国に占拠されないように、その亡霊に憑依されないように、その大樹の陰に寄ることのないようにと折にふれて用心しているのである。そしてまたこれとは逆に、自分の「俳句」が高次の意匠として、より根源的次元にある「ことば」に対して権力的にふるまうことのないようにと願ってもいるのだった。

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