小津夜景
献辞
「土曜日の読書」の原稿を書いていて毎回恐怖することに、思いつく本思いつく本、なぜかどれも絶版になっている、といった怪奇現象がある。
幽霊本ばかりを取り上げるのは嫌なので、そういう場合は別の本がないかあれこれ考え直すのだけれど、これが脳みそをぎゅうぎゅう絞るような難作業である。最近読んだばかりの本の話はリアルな私生活を語るみたいで書くのがためらわれるし、ああ、いったい、どうして本の寿命ってこんなに短いんだろう。
ここまで短命だと、古本屋の存在意義たるやただごとではない。言ってみれば、彼らは書物レスキュー隊なのだ。日々アンテナを張り巡らしては延命すべき稀少本を救い出し、引き取り手が見つかるまで手厚く保護する。取り扱うものが命であるだけに、ひとまず経済のことは括弧に入れなければならず(とはいえ救助隊員が本と共倒れになっては本末転倒ですけど)、そのミッションの重さは想像を絶するものがある。一方、本を書く人々の態度はいかがなものか。たとえば謹呈の際、手書きの献辞を添えるといった行為。あんなことおいそれとすべきではないのではないか。なぜなら自分の名前を書かれてしまった当人は、たとえ不必要でもその本を売ることができないのだから。つまりその本は古紙として回収されてしまうか、書庫で餓死する運命を辿ることになるわけで、と、いきなりここで嘔吐のごとく甦ったのが鈴木信太郎『半獣神の午後其他』(要書房)にあるこんな文章だ。
よく知っている著者から本を贈られるのは無上に嬉しい。当座の毎日は、机の上の手のとどく所に置いて、撫でたり触ったり絶えず眺めて、読んでからは、書斎の中の身近くに並べる。殊に手づから献辞の書かれてゐる本は、著者の肉体の微粒子がその中に飛び込んで生きてゐるやうに感じられ、到底寒々とした廊下の本棚に入れる気にはなれず、他人に貸すことなど思ひもよらない。この本は著者の名前が書いてあるから御貸し出来ない、といふ断り方は、最も正当な理由であらうと確信している。撫でて! 触って! 眺めて! 読んで! 侍らせて! 肉体の微粒子を味わう! うひゃあ。とはいえ人に貸せないという心情はよくわかるし、このくらい愛されるならば本も籠の鳥となって本望かもしれない。私自身はたとえこの人の弟子だったとしても、いや弟子であればなおのこと、死ぬほど気持ち悪いので献本したくないが(こういうのはこっそりやらないとね)。ちなみにいま『半獣神の午後其他』をいかにも読んでいそうな引用の仕方をしたが、実はこれ、河盛好蔵『回想の本棚』(中公文庫)からの孫引きである。こちらの本にも献辞というものをさまざまな角度から眺めたエッセイが収められており、河盛も献辞つきの本は決して人に貸さないとのことだった。ただし大学教授という仕事柄、家に遊びに来た学生にこっそり三島由紀夫からの献辞本を盗まれた上に売られ、古本屋に並ぶといった恥ずかしい目にあったことがあるらしい。下はそれと少し似た話。
アンドレ・ジードがあるとき蔵書の一部を整理して、パリの競売場オテル・ドルオの売立に出したことがあった。ところがその中にアンリ・ド・レニエからおくられた献辞つきの著書が一括して含まれていたので、たちまち文壇雀の好餌になった。(…)彼はそのことを聞くと、すぐに最新刊の自分の著書に「アンドレ・ジードにおくる。彼の売立につけくわえるために。アンリ・ド・レニエ」と書いてジードの元へ持って行かせた。これでジードとレニエの友情に終止符が打たれたわけであるが、これもまた「献辞」の一種であり、この本はきっと高く売れたに違いない。なんと素晴らしい。私信はどんどん書き込むと、この世が楽しくなりそうだ。ところで、いまネットを調べたら、あろうことか河盛の本も絶版だった。でもまあ、今回は内容と釣り合っているので、気にしないでおこう。
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