2019年10月12日土曜日

●土曜日の読書〔文字の泡〕小津夜景



小津夜景








文字の泡

むかしは手紙を書くのにとても時間がかかった。まずなにを書こうかかんがえないことには書き出せなかったし、言葉づかいや文章のながれにも頭を悩ませた。それから筆跡にもこだわっていたと思う。

いまではそのような気苦労がない。頭をからっぽにしていきなり書き出し、思いつきをそのまま自由に綴ってゆく。手紙はそれでじゅうぶんだということがわかったのだ。文字の巧拙はもはやどうでもいい。というより最近はひじきみたいなじぶんの文字を面白がっている。

文字は存在である。それは書き手の分身だったり、また時に書き手のまったくあずかり知らない生き物だったりする。なにもない空間から、身をよじるようにして文字があらわれるのを、書きつつ眺めるのはたのしい。踊っていたら、身体の先っぽから知らない生き物がどんどん湧いてくるみたいなきもちだ。なにもないと思っていた空間に、こんなにたくさんの文字が眠っていたとは。眠りを破られ、ぬっと起き上がった文字のよじれは寝癖のように可愛らしく生々しい。こんな生々しいすがたを人前にさらしていいのかしら。そんな思いをよそに、起き上がった当の文字は伸びたり縮んだりしながらどこ吹く風で遊んでいる。

筆跡へのこだわりがなくなってから、かえって人の字をよく観察している。また書体というものの成り立ちにも関心が向くようになった。
「葦手」というかながきの形式は、水辺の草のなびいている感じに、行間や行の頭を不揃いに、連続体のかなで書かれたもので、手紙などが多いが、いかにも王朝の抒情的な文章をつづるのにふさわしい形式である。時代が下って勘亭流の書、また芝居の文字、その楷書とも行書ともつかぬ書体は、江戸の町方の、かたくるしくない生活感情から生まれた表情を持っている。あきまを少なく太く埋めるような書き方にはユーモアもある。(篠田桃紅『墨いろ』PHP研究所)
篠田桃紅の文字は、生活ではない、もっと純粋で透き通った場所にあるけれど、そんな彼女が彼女自身とは別の、生活の中で使われた文字の意匠心をよろこんでいる。生活の息づかいのある意匠かあ。それならわたしの文字は、あっちへうかんだり、こっちにしずんだり、行先のない文章をつづるのにふさわしい、泡のような意匠を奏でてほしい。またそんな文字が、わたしの言葉をもっとゆるやかな場所へ連れていってくれたら、とてもうれしい。


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