西鶴ざんまい #1
浅沼璞
日本道に山路つもれば千代の菊 西鶴
日本道に山路つもれば千代の菊 西鶴
のっけから私事で恐縮ですが、一年ほど前、不覚にも体調をくずし、「木曜日の談林」を休載。シンクロしてコロナ禍となり、免疫の落ちた我が身を厭いながらの日々、少々長いトンネルを抜け、漸う近頃は筆をとることも出来るようになった折から、そろそろ「木曜日の談林」を復活すべく、ウラハイ関係各位に相談するも、いかんせん病中より談林を読むエナジーとぼしく、しきりに「老い」を詠じた元禄期の西鶴翁に心を寄せるほかなく、それを率直に申し伝えたところ、忝くも「西鶴ざんまい」というアイデアを頂き、水曜日に不定期連載の運びと相成りました。
この場をお借りして関係各位には深謝申し上げる次第です。
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さて西鶴が一時期、俳諧をやめて浮世草子に没頭したことはよく知られていますが、晩年、元禄の俳壇に復帰したことはあまり知られていないようで、ときには俳諧師から浮世草子作家に転身したまま一生を終えたというような誤伝を目にし、耳にすることも。
掲出句は、そんな誤伝を正しうる一つの有力な証左で、『西鶴独吟百韵自註絵巻』(以下、自註絵巻)という絵巻物の発句です。
この絵巻はその名のとおり、西鶴自ら独吟百韻に註をほどこしたもので、町狩野とおぼしき専門画家による挿絵十面を堪能できる逸品。
元禄五年頃の成立と推定され、ならば西鶴没年の前の年で、正月には代表作『世間胸算用』を刊行するも、三月に自らの眼病を書簡に記し、その直後には盲目の娘を亡くしており、まさに苦難の晩年。
はっきりした記録はありませんが、若い頃になくした愛妻にしても、この愛娘にしても、コロナの如き疫病が死因だったのかと、時節柄そう思わずにはいられません。
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ということでこの発句については次回、脇句と併せて鑑賞していきたいと思います。
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