2021年3月10日水曜日

●西鶴ざんまい #4 浅沼璞

西鶴ざんまい #4

浅沼璞
 
日本道に山路つもれば千代の菊     西鶴(発句)
 鸚鵡も月に馴れて人まね        仝(脇)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

本来なら脇から第三へすすむところですが、前回を読みかえしてみると、我ながら紆余曲折が多く、うまく話を続けられそうにありません。(すーさんやゲン君からは好意的なメールをもらいましたが)
 
で、前回の内容を整理しつつ、ちゃんと仮説をたてて出直すことにしました。ついては少しく俳諧用語を(その解説もふくめて)使っていきたいと思います。ご寛恕のほどを。


自註で西鶴は、「千代の菊→紅葉の錦」というような貞門調の付き過ぎを嫌って「鸚鵡」の脇を付けたと言っています。これは縁語によるベタ付け、つまり親句(しんく)を避けて、前句と距離をおいた疎句(そく)を試みたということになります。

疎句はこの頃のトレンドで、元禄正風体と呼ばれる俳風でした(蕉風と同じ読みで紛らわしいのですが、蕉風もまた元禄正風体の一つと考えられます)。


〔以下、仮説〕
かつて談林の親句で俳壇を席巻した二万翁こと西鶴は、久々に復帰した俳壇の、その新たな作風に馴染もうとしていました。

しかし根っからの談林レンキスト西鶴はなかなか疎句付けができません。発句はどうにか仕立てても、脇からつまずく始末。
 
そこで思いついたのが、縁語をたよりに親句を連ね、途中の連想経路を飛ばす談林式テクニック「飛び」。
 
「これならわいかてでけるでぇ」と調子にのり、「千代の菊→菊酒→杯→鸚鵡貝→鸚鵡」と縁語を連ね、一句一句の付けを試みました。
 
シン・ゴジラ式にその過程をメモれば――

  月をうつせる鸚鵡杯   〔第1形態=鸚鵡杯くん〕
     ↓
  鸚鵡もまねる月の杯   〔第2形態=物真似くん〕
     ↓
  鸚鵡も月に馴れて人まね 〔最終形態=月馴れさん〕

まずオウム貝の殻が杯になることから「菊酒→鸚鵡杯」と連想し、杯に月の座をうつしたのが第1形態。その第1形態の「うつせる」を「まねる」と推敲し、鸚鵡に命をあたえたのが第2形態。つまりオウム貝の杯が月をうつすように、外国産の鸚鵡が日本語をまねるという付筋で、月=日本語という等式が浮かびあがります。
 
で、その等式から、鸚鵡も月(=日本語)に馴れるとしたのが最終形態。
 
このように発句にある「日本」という言葉を使わずに「日本語」を暗示するレトリックを、談林では「抜け」といいます。前回、「杯」の抜けのみを指摘しましたが、より本質的には「日本語」の抜けこそ最初に指摘すべきだったかもしれません。なぜなら「日本語トレーニング」の抜け(暗示)が成立しなければ、発句の「日本式計算方法」に対する対付にはならないからです。対付でなければ脇としての疎句的価値も低くなるでしょう。


さてニックネームの方をたどると、鸚鵡杯くんは物真似くんに変態し、最終的には成体の月馴れさんになるわけですが、月=日本語を念頭におけば、月馴れさんは日本馴れさんということになり、発句の日本道さんと「日本」ペアになるわけです。めでたいやないかい。

親句の成長過程を飛ばせば、疎句の成体だけが残るのは道理で、ひとっ飛びに成長するこの俳テクを、飛ばし携帯ならぬ「飛ばし形態」と呼んでみるのも一興かもしれません。


これで首尾よく疎句付けとなったわけですが、「飛び」や「抜け」の談林ワザをダブル使用したなどと得意の軽口でネタバレするわけにはいきません。「二万翁いうたかて談林くずれやなぁ」などと若手俳諧師から陰口をたたかれかねませんから。

で、「さらりと何気のう付けただけやねん」とうそぶき、「何ぞといへば何の事もなく付け寄せけるを、皆人好める世の風儀に成りぬ」と自註を〆た鶴翁。

かつての談林ワザを逆手にとり、元禄正風体というトレンドを負った最晩年の西鶴がここにいます。


以上の仮説を前提とし、次回は第三にトライしてみましょう。

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