相子智恵
蝶も蜂も来よわれは腕から枯れはじむ 遠山陽子
蝶も蜂も来よわれは腕から枯れはじむ 遠山陽子
『遠山陽子俳句集成』所収 第6句集「輪舞曲(ろんど)」(素粒社)より
「輪舞曲(ろんど)」は新作句集として、『遠山陽子俳句集成』の中に収められている。掲句はそこから引いた。
帯裏に採られた「白蛾も来よわが九十の賑ひに」の方が代表句になるだろうが、掲句の過剰さも私は好きだ。「輪舞曲」には、老いてゆく自分が、虫たちの憩いの場になるようなイメージが折々に現れくる。老いて枯れていく身辺は、飛んでくる虫たちによっていつも華やかで、死と生が交錯するような祝祭的な時間が流れている。
八十歳ただの黄蝶の来ては去る (平成二十七年)
蝶も蜂も来よわれは腕から枯れはじむ (平成二十九年)
白蛾も来よわが九十の賑ひに (平成三十一年/令和元年)
一句目は、八十歳。自分は一本の花や樹木のように立っていて、ただ黄色い蝶が来ては去って、来ては去って……を繰り返している。淋しいようで案外楽しそうなのは、黄色の明るさと、繰り返しを仄めかす下五のためだろう。
二句目は春。自分は、枝のように伸ばした腕の先から枯れていく死に向かう植物であり、しかし〈蝶も蜂も来よ〉と春の虫たちを呼んでは戯れている。枯れ進みながらも華麗で、うっとりとする。
三句目の白蛾も美しい。「輪舞曲」には白髪を詠んだ句が散見されるのだが、「しろが」の読みが「白髪」に通じることから、この句にも、どこか白髪のイメージが漂う。きらきらと光って飛び回る白蛾と白髪。〈九十の賑ひ〉の何と楽しいことか。新美南吉の童話「木の祭り」を思い出したりもする。
遠山の師である三橋敏雄には、言わずと知れた「かもめ来よ天金の書をひらくたび」の名句があって、これは遥かなものへの憧れを内に秘めた動的な〈来よ〉(来よと言いつつ、本当は自分が飛び立ちたい)なのだが、遠山の〈来よ〉は、自分は一本の植物のように動かないことを自明としてその場で枯れていき、虫たちに来訪を呼びかけるイメージなのは面白い。
「天金」に呼応するように「白蛾」は白銀のイメージとでもいえようか。色だけでなく、華やぎに動と静があるとするならば、静の華やぎがある。
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