相子智恵
秋夕焼最晩年の父と見し 甲斐由紀子
秋夕焼最晩年の父と見し 甲斐由紀子
句集『耳澄ます』(2022.7 ふらんす堂)所収
本句集は編年体で編まれており、後半は父の介護と看取りの句が大きな山場となっている。
永眠の前の熟睡や水温む
木の芽どき湯灌の膝のよく撓ふ
など、静かながら迫力に満ちた看取りの句は、掲句の次に巡り来る春の句の中にあった。つまり掲句は、父の最晩年を後から思い出して詠んだ回想の句ではない。「今が最晩年である」ということを、まさに今、父は生きながら、子は認識しながら、二人で見ている秋の夕焼なのである。そのことに私は凄味を感じた。
「最晩年」という言葉は、評伝のような書物に出てくる言葉である。ある人の死後、故人の人生を誰かが遡って語る時の言葉だ。しかし、介護をしていると明らかに「ただの晩年」ではなく、「最晩年だ」と感じるほどの衰弱に一定期間、向き合うことになる。その人の息に、食事に、排泄に、苦しみに神経をとがらせ、生きるための世話をしながらも、同時に死は近いのだという俯瞰した諦めと寂しさがある世界。
俳句というごく短い詩型によって引き出されたであろう「最晩年」という直截的な言葉は、そのすべてを物語っているのではなかろうか。背景を知らずに読めば回想の句として読めるが、私が感じたのは、そういう今を生きつつ詠んだ句としての凄味なのである。
それだけではない。父の死後にこの句を読めば、あの日父と見た秋夕焼を静かに、心安らかに思い出すことができる。この句はいわば「美しき回想の先取り」でもあり、未来の自分を慰撫してほしいという祈りをもまた、作者は込めたのではないだろうか。そしてそれはきっと一緒に夕焼を見ている父もまた、子のことを思えば同じ祈りをもったことであろう。
一句を取り出してみてもしみじみとするが、句集の中で読むことで、句の中に流れる時間性の不思議さや祈りが感じられてくる一句である。
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