相子智恵
風は歌雲は友なる墓洗ふ 岸本尚毅
句集『雲は友』(2022.8 ふらんす堂)所収
自選の15句が裏表紙に載っていて、すべてが雲の句なので驚いた。まさに『雲は友』なのである。これだけ雲の句が一集に収まっていることも面白い。少し挙げてみよう。
胴体のやうに雲伸び日短
埼玉は草餅うまし雲白し
どちらも人を食ったようなおかしみがあり、好きな句だ。
さて、掲句は本句集の表題句。不思議な句である。そもそも、〈風は歌〉で〈雲は友〉だというのは、墓石にとってのことなのだろうか。それとも墓を洗っている作中主体にとってのことなのだろうか。
私は最初、墓を主体にして読んだ。じっと動くことのない墓石にとっては、風が毎日違う歌を歌い、見上げれば毎日違う姿を見せる雲が友なのだろう。静と動。この墓は、都会の密集した墓地ではなく、農村の、稲田に囲まれた小さな墓地だといいなと思う。稲穂を風が渡り、雲がいろんな形を見せる。なんだか呑気で面白い。
次に墓を洗う人を主体として読んでみた。これもまたのどかな気分になる。いい墓参りの句だ。そして、まだ表れていない主体としては、この墓に埋葬された死者もその主体となり得るだろう。泉下の人にとっても風は歌で雲は友なのだ。
ここで、ちょっと昔に大ヒットした「千の風になって」という歌を思い出してしまった。あの歌は、「死者は墓にいるわけではなくて、千の風になってあなたを見守っているよ」という趣旨の歌だった。しかし、墓は動かず、風と雲は動き続ける……という掲句の方が、説教臭くなくていいなあ、と思う。
さて、本句集の中には他にも墓の句が案外多い。(ちなみに寺や涅槃会なども多い。好みの句材なのだろう)
墓石や出合ふともなき蟻と蜘蛛
柿潰れシヤツだらしなく墓に人
なかでもこの即物的な墓の句が面白い。(墓の句に面白いと言ってよいのかは分からないが……)
明易や雲の一つに乗りて死者
という句がある。岸本氏の死者は、勝手に風に成り代わって満遍なく人々を見守ったりはしない。一つの小さな雲にのって楽しそうに移動していく。あとがきに、〈自分が老人に近づいた〉と書いていたが、こういう死生観というものが、いかにも岸本氏らしいのである。
秋の雲子供の上を行く途中
そんな雲は、時々、子どもの上を通ったりもする。
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