相子智恵
健やかなれ我を朋とす夜の蜘蛛 池田澄子
句集『月と書く』(2023.6 朔出版)所収
一匹の蜘蛛が、部屋の壁かどこかにじっとしているのだろうか。さも当たり前のようにそこに居座っている。きっと一人の夜なのだろう。蜘蛛も一匹、我も一人。この部屋の中の生き物はたったのそれだけ。とても静かな夏の夜だ。
〈我を朋とす〉というのは、思えば人間の勝手な思い上がりで、蜘蛛は、人のことを朋とは思っていないだろう。けれども、動かずに、ただそこにいる。それはもう、朋が訪ねてきたようなものだと身勝手に思ってしまってもよいものなのかもしれない。こんな静かな夜ならば。〈我〉は、この夜に訪ねてきた朋を、決して追い出したり、殺したりはしない。〈健やかなれ〉と、ただただそこに居る一つの命に願うのだ。ただ、そこに健やかに生きていてくれればよいと。
そうかと思うと、こんな句もある。
膝の蟻とっさに潰せし指を扨て
膝に来た蟻を、とっさに潰してしまった。危害があるわけでないのに本当にふと、無意識に殺してしまった。その指を〈扨(さ)て〉どうしようかと思案している。指に貼りついた、ぐしゃぐしゃに潰れて死んだ蟻を見つめて。墓を作る?指を洗う?偽善者にもなれず、淡々と処理もできない。
生き物を朋と思うこともあれば、それでも無意識に(本能として)加害してしまうこともあって、そのどちらもが人間の身勝手だ。そうした相手との関係性を、どんな生き物でも問わず、ずっと自分事として引き受けている作家である。
春寒き街を焼くとは人を焼く
焼き尽くさば消ゆる戦火や霾晦
〈街を焼くとは人を焼く〉。例えばニュースなら、「街が戦火に包まれた」というのだろう。「人→街」の言い換えは、加害も被害も透明化する。この句はそれを思い出させている。〈焼き尽くさば消ゆる戦火〉は、焼き尽くして、燃えるものがなくなれば火は消えるのは自然の摂理だ。でも、それは自然の摂理なのか。火をつけたのは誰なのだ?火が勝手についたのか?〈焼き尽くさば消ゆる〉そんな簡単なものなのか。戦火ならば、人を焼いて……そんなふうに、ずっと問い続けている。
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相子さん 相子さんに通じた!うれしいです。 池田澄子拝
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