ポエミーとハイミー ● 中村安伸
いわゆる「カタカナ語」のなかには、ほぼ同じ意味の日本語が存在しているにもかかわらず、少し異なるニュアンスを帯びたニューモデルとして輸入されてくるものがある。それらのうちには、時間の経過とともに原義がうすれてしまい、副次的だったはずのニュアンスの部分が主要な意味となってしまうものもある。
たとえば、新奇な傾向や嗜好といった意味をもつ語がつぎつぎに生み出されては、その時代独自のニュアンスを背負わされてゆくのは実に面白い光景である。
「モダン」という語は、本来の意味と矛盾して大正時代や戦前の情緒をあらわす用語として使われたりすることがあるし「プログレッシブ」「アバンギャルド」といった語は、それぞれにある時代の芸術運動に重ね合わせられている。また「ナウい」「トレンディー」といった語にいたっては、それが盛んに使われた頃の意味に使用することは不可能である。
このような傾向はカタカナ語に限られたものではなく、古くは「今様」「当世風」などといった語があったし、現在用いられている「今風」という語もいずれそのような運命をたどることになるかもしれない。
「ポエム」という語も--もとの意味を失ったわけではないが--やはり特別なニュアンスを背負っている。
端的に言うと「ぽえむ」とひらがなで書いたり、あるいは「帆絵夢」などという漢字をあてたりするような感覚がそれである。また、近年では「自分」中心的な作風の詩歌を蔑視するようなニュアンスで用いられることも多いようである。
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先日ある句会の選評にて「ポエミー」という語が使用されたとき、私は一瞬前述のような「ポエム」のもつ特定のニュアンスを想起したのであった。しかしそのとき「ポエミーである」と評された作品をあらためて検討してみると「詩的」あるいは「ポエティック」という従来の語におきかえたとしても、さほど不都合はないと感じられるのだった。
ひらがなの「ぽえみー」ではなくアルファベットもしくはカタカナの「ポエミー」なのである。
つまり「詩的」「ポエティック」という語が句の選評の場で使いにくいことから、それらにかわるものとして咄嗟に開発されたのだと考えるのが妥当だと思われた。
もちろん英語としてpoemyは誤りで、poeticという語を使うべきであるのは言うまでもない。
ただ、最初にこの語を使った人の名誉のために付け加えると、この新奇な語をだれかが聞きとがめたとき、彼女は「ポエティック」と訂正する素振りを見せもしたのである。
句会における選評は、批評であると同時に、より即時性のもとめられるコミュニケーションの場でもあり、本格的な批評の用語を持ち込むことが不自然に感じられる局面があるのは確かだ。
実用性の問題としても「詩的」という語には同音異義語が多いし「ポエティック」という語は発音しにくい。何よりそれらの語の生硬でさかしらな感じは、句会の選評という場には似合わない感じがするのである。
「ポエミー」という語は、とりまわしのよいツールとしてその夜の句会において見事に機能したのだった。
さて、数日後の別の句会--メンバーのうち数人が共通していた--において、ふたたび「ポエミー」という語が話題にのぼることになった。「ポエミー」の反対語は何か?という話になり、私はなんとなく「ハイミー」という語を思いついたのだ。
それは俳句の批評において「詩」と「俳」がしばしば対立項として取りあげられることをふまえたダジャレとしては、まずまずウケたようにも思うが、この語が先の「ポエミー」と同様に、句会でうまく機能するかどうかについては、やや心もとなく思う。
「ハイミー」のもとになった「俳味」という語は、もともと句会における批評用語として安定して使われてきたのであり、その意味するものの曖昧さによって、かえって重宝されてきた面がある。
この、化学調味料を思わせる代替品へのニーズがあるかどうか。せいぜい「ポエミー」との抱き合わせで使用される程度であろうか。
いまのところ代替物でしかない「ポエミー」「ハイミー」という語も、今後使用されてゆくうちに、それぞれに独特のニュアンスを纏ってゆくことは避けがたい。
それにより、従来の語では掬いとれなかった新しい詩情や俳味を開拓してゆくことになるかどうか。いまだに味の素とハイミーの区別もつかないのではあるが。
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