2009年1月7日水曜日

●「俳句結社」論議あれこれ〔上〕さいばら天気

「俳句結社」論議あれこれ〔上〕

さいばら天気


結社と若者についての話題がこのところさかんだ。

つまるところ、結社にとっては、どんな若者がどのくらい結社に入ってくるのか(くれるのか)、若者にとっては、どの結社に入ればいいのか、あるいは入らずに俳句を続けていくのか。

なんだかリクルートと就職活動の様相だ。「結社に入らない」という選択はさしづめフリーターか。ただし、若者が結社に入ろうが入るまいが、喰うのに困るわけではないから、呑気といえば呑気な話題なのだが、ふたつばかり、不思議に思うことがある。

ひとつめ。年長者が結社について語るなかに、「結社は楽しい」というセリフをついぞ聞かないこと。

ふたつめ。結社に関して、自分の選択や立場についての説明責任があるかのような空気が漂っていること。結社を入る意思をもった若者やすでに結社所属の人たちには「なぜ所属するのか」の表明を迫られるような空気。入らない人には「なぜ所属しないのか」。表明とまで行かなくとも、所属・非所属について、申し開きできるような理由が要るかのような捉え方。

このふたつが、どうにも私には不思議だ。

 *

ひとつめの不思議について。

俳句総合誌の座談会や特集で、結社と若者という話題がたびたびのぼっている。

例えば、『俳句界』2008年10月号 大特集座談会「現代俳界のねじれ現象を突く(1)」(註1)

『俳句年鑑2009年版』合評鼎談(宮坂静男、村上護、山下知津子)では、「結社と超結社、グループのあり方」がテーマのひとつに挙げられ、論議が交わされる。
山下 (…)俳句を学び始める時期は強い作家性を持った一人の作家の主宰する結社で鍛えられる時期が必要だろうと思うのです。結社という存在から、主宰の という存在から、生身の人間ですから、非合理な体験をすることもないわけではない。それも引っくるめて(…)ある程度、痛い思いもしながら学んでいくこと が基本だろう。

宮坂 今、結社でいちばん悩んでいる人は中堅ですよ。トップに立つ人は結社誌でも上のほうに出るから、結社で責任を担っている。けれど中堅の人たちはなかなか浮かび上がれない。しかし、力はある程度あるから、超結社的なグループで活躍するという二面的な行き方があってもいいんじゃないか。
「痛い思い」「なかなか浮かび上がれない」など、ハードな状況を伝える文言が目立つ。

さらに、『俳句界』2009年1月号の特集「このままでは俳句結社は滅亡する!?」(註2)

昨年から今年にかけて、こうした記事を読んできて、「結社は楽しい」との文言を一度も見たことがない。

結社は、入会者を教育し鍛えるところ。そうには違いないし、昔からそう言われている。だが、それだけでもないだろう。

入ったものの、なかなか浮かび上がれない厳しい世界(註3)。きっとそうなのだろうが、「浮かび上がる」ために俳句をやっているわけではない人も多いはずだ。

聞いていると、鍛錬や学びばかりが強調される(註4)。結社は「こわいところ」「耐える場所」。結社経験のない人間が、そう思い込んでもおかしくない。知らない人間のアタマのなかで、結社イメージが歪に膨らんでいきそうだ。

ニコリともしようものなら「俳句をなめるなよ」とたしなめられる。他の流派に関心を示せば「主宰の指導をなんと心得おろう」と諭される。「いっぱしの俳人になるための、今がガマンのときなのだ」と励まされたりして? 

だが、そうだろうか。結社に入っていて楽しいこともたくさんあるのではないか?

苦しいだけで、これだけ多くの人が結社所属を続けているわけがない。

(明日につづく)



(註1)参考
≫上田信治・『俳句界』2008年10月号を読む

(註2)参考
≫山口優夢・「俳句界」2009年1月号 提言シリーズを読む
≫高山れおな・シェーンミズ・カムバーックの声はむなしく凩に紛れ ドゥーグル・リンズィーの句集はまさしく歳晩に至る この前半部分

(註3)浮かび上がれず朽ちていく過程については、筑紫磐井「自叙伝風・評論詩風に(同人論/作品番号19)」の終盤、「若い世代は結社にどう立ち向かうべきか」の項でヴィヴィッドwに描写されている。

(註4結社の、いわばフォーマルな部分ばかりが強調されるのは、ひょっとすると、結社を「そこいらのサークル」といっしょにされたくない(してはならない)という心情が働くせいかもしれない。たしかに結社は、背筋を伸ばして俳句に取り組むところという側面がある(それで、いい俳句ができるかどうかは別にして)。だが、すこし距離を置いて眺めると、結社とは、俳句サークルの一種にも見える。オーセンティックな香りも漂う上等なサークル。

4 件のコメント:

  1. >結社に関して、自分の選択や立場についての説明責任があるかのような空気が漂っていること。

    同じようなことを、違和感として感じていました。
    入る、と、入らないと決める、の2つしかないような空気になっていますが
    まだ決めていない、とか、入る入らないを意識したことがない、とか、
    そういう人々も少なからずいるはずなんですけどね。
    特にTHC関係の人々に。
    かく言う私も、入らないと決めているわけではない人の1人です。

    楽しさといえば、
    俳句をする若者が少ないのも、楽しさが伝わってないからだと思っています。

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  2. 飛び地さん、コメントありがとうございます。

    結社うんぬんは、結社や俳句世間全体を考える人にとっては、社会的・経済的テーマですが、個人にとっては(当然ですが)プライヴェートなテーマ。それぞれがそれぞれでいいと思っています。


    >楽しさといえば、俳句をする若者が少ないのも、楽しさが伝わってないからだと思っています。

    結社の魅力のひとつは「高齢者」が多いことだと思います。記事には洩れましたが、もし私が若者に結社(一般)を薦めるとしたら、「お年寄りはおもしろいぜー」と。

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  3. 身も蓋もない事を言うようですが、若い人は俳句なんぞという活きの悪いゲートボール文藝などに余り深入りせずに、もっと時代の前衛の活きのいい物に興味を持った方がいいと思います。
    それから年を取って余生の時間を楽しみたくなったら、もう一度俳句へ戻ってくればいい。
    世の中は広い。俳句よりもっと面白い事は一杯あります。若いうちにしか出来ないこと、若いうちに見聞を広めて世界を知っておくことはとても大切な事です。詩、小説、思想、映画、美術、音楽、演劇、旅行、スポーツ、恋愛、仕事など、若いうちにしか出来ないこと、若いうちでないと身につかないことが一杯あります。俳句を総てとしないで、世界への見聞を貪欲に体験する事をお薦めします。

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  4. 「活きの悪いゲートボール文藝」に向かって、活きの良いことをやりたい、という野望があってもいいのではないでしょうか(あるいは自分をヨレヨレの老人のように捉える若者がいても、それをダメとは言えない気がします。

    深入りせず、という部分は、かなり賛成。浅く、鋭く立ち回るってのもよいのでは、と。

    俳句世間に深入りした若者に、澱のようなものを感じることが最近たびたびです。年端は行っていなくても、高齢者みたいな…。

    若いと思って油断はできません。年齢と擦り切れ感は別物のようで。

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