2009年1月8日木曜日

●「俳句結社」論議あれこれ〔中〕

「俳句結社」論議あれこれ〔中〕

さいばら天気

結社は楽しい。

例えば、ある句集、ある句を読んで、たいそうおもしろく、どんな人がこんな句を作るんだろうと興味を抱いたとする。その作家が、もしどこかの主宰なら、1万円かそこらを払うだけで、その憧れの俳人に自分の句を読んでもらえる。おまけに結社誌に自分の句が何句か載ったりする。

はじめて句会に出かけても、新参者として怠りなく挨拶さえすれば、邪険にはされない。二次会では、話の合う人も見つかるだろう。ふだんなかなか付き合う機会のないような年長者(父母あるいは祖父祖母のような年齢の俳句愛好者)と気さくに話ができる。

結社では、各地で月に十数回かそれ以上、句会が開催されている。暇とオカネさえあれば、週末ぜんぶを句会で埋めることもできる。新年句会や全国大会では、いつもと違う顔ぶれにも会える。

そのうち、主宰に採ってもらえる句数も増え、「そろそろ同人に」などという声もかかり、「それでは謹んで」と同人に(年会費がどーんと増えるが)。向上心(上昇志向)のある人間の満足にも対応した「階層システム」が、どの結社にもある。

以上は、老若男女、句歴の長短にかかわらず味わえる結社の楽しみだ。若い人に話を限定すれば、結社生活はさらに薔薇色である。

20代(あるいは30代)の入会は、どの結社でも大歓迎だ。若者をちやほやしない結社は「ない」と言ってもいい。若いというだけで、これほどの扱いを受ける世界は、俳句以外にないだろう。おまけにちょっと気のきいた俳句がつくれるとなると、半年もしないうちに「わが結社のホープ」と呼ばれたりする。そこで舞い上がるも良し、冷静に客観視するのも良し。

そうこうするうち俳句総合誌の「若者欄」への数句掲載の声もかかるかもしれない。「顔写真をどうしよう?」と俳句よりも深く悩んだりして。

一方、俳句が「いまひとつ」でも存在感を示すことはできる。結社誌の発行のお手伝い、全国大会運営のお手伝い(若いんだから走り回ることくらいはできる)、さらには月例の小規模句会の会場予約。「パソコンできるでしょ?」との問いに「はい」と答えて、句稿の入力を引き受けたり。

月々千円程度の会費で、これだけ楽しめるのだ。若い人で俳句をやっているなら、結社に入らない手はない。

こんなふうに「楽しさ」を訴えるほうがよいのではないか。結社側からは。

…と、ここまで書いて、あまり楽しくないような気もしてきた。まずいです。

 *

以上のような結社の楽しみが、それほど楽しく感じられないとしても、それで「結社は楽しくない」と思うのは早計だ。このような類型的・外形的な「楽しさ」以外の「何か」が結社にはあるのだ。

それを何とは限定できない。主宰に由来する何かであったり、ひとりの先輩会員に由来するものであったり。何が結社の楽しさになるかは、個人によって違う。その人のオリジナルな体験のなかに真の楽しさがある。

だから、結社がいかに楽しいかは、入ってみないとわからない。いくら「この結社はこんな感じ」という事前説明や予備知識があったとしても、そこから洩れることがたくさんある。入る前の予想とぴたり一致するものではない。予想と大きく食い違っていたから、幻滅し、辞めるという人もいれば、予想と違っていたから続けるという人もいる。

おそらく、結社は、恋愛と同じで、概念としてふわっとこんなものという像があったとしても、その体験のなかに入ってしまえば、すべてが個別である。一般論は通用しない。出たとこ勝負ならぬ「入ったとこ勝負」なのだ。

 *

私は俳句を始めて1年ほどで結社「麦」に入会した。主宰(中島斌雄)はすでに物故で、会長制を敷く。会長を「先生」と呼んだことはない。皆が「田沼さん」と呼んでいたので、私のような新参者も「さん」づけで通させていただいた。ふつう結社というのは主宰が厳然と君臨するもので、その意味からすると、「麦」は純然たる結社とは言えないかもしれない。

その「麦」におよそ8年半在籍したが、そこで経験したのは、楽しいことばかりである。ツラい思いは皆無、不愉快な経験もほとんどない。

一方、その間、俳句を学んだかと問われれば、否と答えるしかない(だって、こうですから)。だが、それは「麦」のせいでも、結社という形態に由来するものでもない。学ばなかったのは、自分に原因がある(なにごとについても「教える」ことは不可能である。学ぶか学ばないか、があるだけだ。学ばない人間には何も教えることはできない)。

結社に8年半もいても(そこが変則的結社であるにしても)、何も学ばず、楽しい思いをたくさんして過ごす人間もいるのだ。現に、ここに。

だから、「結社は鍛錬の場所」という文句を鵜呑みにしてはいけない。そうには違いないが、鍛錬の有無・度合いは当然ながら個人によって違う。「楽しいところ」という宣伝文句がなくとも、そこにはたくさん楽しみがある(もちろん、結社に入らず俳句を続けていても、楽しみはたくさんある)。

 *

ついでに言えば、何年か後、結社が滅亡したとしても(そんなことはあり得ないが)、なんでもない。私やあなたが、そのとき、一句捻る、そのことのほうがよほど重大である。

私たちが俳句というものを知って(註*)、ある一句を読む、一句を捻る。そのことが重大であって、結社に入ろうが入るまいが、結社が存在しようが滅亡しようが、どうでもいいことだ。そんなものは屁の突っ張りにもならない(石井慧2008年語録)。


(つづく)

(註*)私たちが俳句に出会ったという事実の背景には、俳句が豊かに存在するという歴史的事実があり、それにはもちろんのこと結社の存在が深く関わっている。だが、これから先もその事情が続いていく、とは言えない。

3 件のコメント:

  1. >学ぶか学ばないか、があるだけだ。学ばない人間には何も教えることはできない

    至言でござります
    学ぶ気はあるのだろうと思うのですが
    同じ過ちを繰り返してしまいます
    結果的に学んでないのです
    にんげんは学習能力が低いのでしょうね!
    恋愛と同じです

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  2. >おまけにちょっと気のきいた俳句がつくれるとなると、半年もしないうちに「わが結社のホープ」と呼ばれたりする。

    あいたたた
    筑紫磐井さんの論考(若い世代は結社にどう立ち向かうべきか)も思い当たりすぎてぐさぐさ来ましたが,このくだりも痛いです。
    まさに入社して一年程,結社誌における「ニューウェイブ」なるコーナーにて15句掲載されました,自分も。
    しかもそれは,4,5か月投句を休んで復帰した直後の事だったので,何だか奇妙な気分がしたのですが。
    そうか~あれは30代が離れ行くのを阻止していたのか(笑)

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  3. 西村薫さん、コメントをありがとうございます。

    >同じ過ちを繰り返してしまいます

    耳が痛うございます。


    藤幹子さん、コメントをありがとうございます。

    結社で若手がなんらかのアドバンテージを得るのは当然です。リターンの期待値が大きいので投資する、という原理。
    厚遇されない若手がいるとしたら、そうとうダメ(期待ゼロ)ということでしょう。

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