さいばら天気
このところの結社論議に関して、ふたつめの不思議。結社所属・非所属について、個人的な事情や思想を言明せねばならぬといった空気。
そんなものはない、ということなら、それでいいのだが、ちょっと感じる。
他人の考え方や思いを知ることはいいことだし、おもしろいのだが(「なんでその結社に入ったの?」と訊いてみたくなることがある。察しがつかない場合に限られるが)、聞いてみても、なるほどそれぞれ事情や考えがあるのだなあ、という以上のものはない。
結社を選ぶとき、二通りがあるようで、ひとつは入念に下調べをして、自分に合うであろう結社、自分にとって魅力的な結社を選ぶタイプ。もうひとつは、なりゆきに任せるタイプ。さしずめ前者は、釣書を精査したうえでの見合い結婚、後者は恋愛結婚か。無所属で句会に通ううちに入会するしかなくなる「出来ちゃった入会」(譬えが下品でごめん)もあるだろう。どの入会パターンが幸せを掴むかは、わからない。
私の場合(「おめえの話はいいよ」って? まあまあ、そう言わず)、俳句を始めてからひと月かふた月に1回の句会参加が1年ほど続き、もうすこし句会の回数を増やしたいと思っていたところ、吟行句会の話を聞き、参加。その吟行に田沼文雄さんという「麦」の会長がいた。
句会後の飲み会で熱燗をお注ぎすると、返杯で私にも注いでくだすった。盃をもらった以上、それっきりというのでは、仁義を欠く。会費くらいお支払いいたしやしょう、と入会。このときビールなら入会していなかった。「話、つくってるでしょ?」とおっしゃる向きもわかるが、万事、なりゆきと仁義を重んじるのが信条である。これは本当の話。
さて、そんな行き当たりばったりで結社に入る人間もいれば、用意周到、人の話も聞いたりしてリサーチ抜かりなく、ここと結社を決め、時機をも見定めて入会する人もいるから、世の中、おもしろい。
だが、だから、その人が、あるいは私が、どう、ということはない。
さらには、結社に所属しているから、いないから、その人のつくる俳句がどう、という話は、(少なくとも私にとっては)そうとうに退屈である。所属結社のいかん、所属・無所属のいかんが、「俳人アイデンティティ」の大きな部分を占めるかのような言い方を目にするが、ぴんと来ない。
三鬼を読むのに、略年譜から読む人はいない。まず句を読む。つくる俳句以外が、俳人(俳句作者)のアイデンティを形づくる部分は、本人にとっては大きいかもしれなが、他人にとっては、それほどでもない。ましてや、「結社に入っていない」ことも、ほとんどどうでもいい属性のひとつに過ぎない。「なぜ入らないか」はなおさらだ。
俳人(俳句作者)がどんな俳人(俳句作者)かを知りたければ、句を見ればよい。それだけの話である。さらに言えば、句の背後に作者がいなくても、私にはいっこうにさしつかえない。つまり、誰がつくったかわからなくとも、おもしろい句なら、それで良し(でも、作者を知りたくなるけどね)。
大きな肩書きを背負って、俳句総合誌の巻頭に50句並べても、おもしろくないものはおもしろくない。チラシを切った短冊にヘタな字で書かれた句でも、おもしろいものはおもしろい。読者として、それくらいの矜持、あるいはわがままを抱えたままでもいいだろう。誰に頼まれたわけでもなく、どこからか給金をもらっているわけでもなく、俳句を愛好しているのだから。
*
俳句(作句)を続けていくうえで、なんらかの環境整備(結社なり同人への所属)が必要とみることは、もちろん理解できるが、それはみずから整備すればよい話。住みやすい町に引っ越すとか、ね。その人がどんな人かを類推できる材料は、住環境にこだわる人なんだな、という以外に見つかるはずはない。住む場所を選ぶことがエラいわけでも、選ばないことがエラいわけでもない。良いこと、良い振る舞いをする人がエラい。
まあ、どこでどういう状況であろうと、ご健吟を、と。
3回シリーズを終えて、何もまとまらないし、何も言っていないような気もするが、それはそれで、自分の本旨からずれているわけではない。繰り返します。
みなさま、ご健吟を。
●
さらには、結社に所属しているから、いないから、その人のつくる俳句がどう、という話は、(少なくとも私にとっては)そうとうに退屈である。所属結社のいかん、所属・無所属のいかんが、「俳人アイデンティティ」の大きな部分を占めるかのような言い方を目にするが、ぴんと来ない。
三鬼を読むのに、略年譜から読む人はいない。まず句を読む。つくる俳句以外が、俳人(俳句作者)のアイデンティを形づくる部分は、本人にとっては大きいかもしれなが、他人にとっては、それほどでもない。ましてや、「結社に入っていない」ことも、ほとんどどうでもいい属性のひとつに過ぎない。「なぜ入らないか」はなおさらだ。
俳人(俳句作者)がどんな俳人(俳句作者)かを知りたければ、句を見ればよい。それだけの話である。さらに言えば、句の背後に作者がいなくても、私にはいっこうにさしつかえない。つまり、誰がつくったかわからなくとも、おもしろい句なら、それで良し(でも、作者を知りたくなるけどね)。
大きな肩書きを背負って、俳句総合誌の巻頭に50句並べても、おもしろくないものはおもしろくない。チラシを切った短冊にヘタな字で書かれた句でも、おもしろいものはおもしろい。読者として、それくらいの矜持、あるいはわがままを抱えたままでもいいだろう。誰に頼まれたわけでもなく、どこからか給金をもらっているわけでもなく、俳句を愛好しているのだから。
*
俳句(作句)を続けていくうえで、なんらかの環境整備(結社なり同人への所属)が必要とみることは、もちろん理解できるが、それはみずから整備すればよい話。住みやすい町に引っ越すとか、ね。その人がどんな人かを類推できる材料は、住環境にこだわる人なんだな、という以外に見つかるはずはない。住む場所を選ぶことがエラいわけでも、選ばないことがエラいわけでもない。良いこと、良い振る舞いをする人がエラい。
まあ、どこでどういう状況であろうと、ご健吟を、と。
3回シリーズを終えて、何もまとまらないし、何も言っていないような気もするが、それはそれで、自分の本旨からずれているわけではない。繰り返します。
みなさま、ご健吟を。
●
こんにちは。「結社所属・非所属について、個人的な事情や思想を言明せねばならぬといった空気」感じます。私自身もその手のことを気軽に聞いてしますし(苦笑)。それはさておき、結社と結婚のアナロジー、面白いです。結婚する、しない、なぜする、なぜしない、なぜしたいのにできない、について議論百出なのが、結社にも言えるのかもしれません。蛇足ながら、私の場合は生まれて初めての合コンでたまたま隣に座った子と付き合って、そういうものだろう思って結婚したという感じでした。
返信削除「結婚してますか?馴れ初めは?奥(旦那)さんのどこが気に入ったのですか?」
ちょっと親しくなった人、あるいは興味を感じる人にはつい聞いてみたくなります。「皆さん、こうされていますよ」という話に日本人は弱いので。たしかに聞いたからと言ってその人が分かるわけではないし、最近はかなりデリケートな話題になりました。結社のことも、「そんなこと此処で聞かないでよ。あなたに関係ないでしょ」という状況にならないようにしたいですね。
イマゴンさん、コメントありがとうございます。
返信削除なれそめにしても結社にまつわる選択にしても、ネタとしての興味以上のものはないので、おもしろいほうがいいと思っています。
高尚なテーマにしようとすると、かえって卑俗・陳腐なものになります。