〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年2月号を読む〔上〕
五十嵐秀彦
今月の特集は「俳句に著作権はあるのか?」と題して、大高霧海、遠藤若狭男、さいばら天気三氏による論考三篇と、安倍元気、五島高資、筑紫磐井、中嶋鬼谷、栗林浩五氏による座談会で構成されている。
論考はたまたまなのか編集者の方針だったのか、大高氏の「法律論」、遠藤氏の「本歌取り」、さいばら氏の「引用」と、きれいにわかれている。
「盗作」という露骨に悪意ある行為を除けば、なるほどこの三点がテーマになるのだろう。
●大高霧海「俳句における著作権の保護」 p30-
確かに今月の特集が「著作権」であり、大高氏が俳人であり弁護士でもあることを考えると、こういう論考になっても不思議ではないかもしれないが、正直な感想を言わせていただくと、呆れてしまった。
前半の記述などは、まるで「コンメンタール」でも読まされているかのようで、学生時代を思い出し不愉快になるほどだ。
弁護士でいらっしゃることから、編集側も期待し、著者も期待されていると思ったのかもしれないが、こうした法律論は、たとえば詩における「いのち」というテーマに医師が出てきて化学療法のコンプライアンスについて論じているかのような、的外れの印象を受けてしまう。
著者の意図に反して、読めば読むほど、なるほど俳句に著作権の適用は無理なのだなと思うだけだった。
特に論末の《桑原の第二芸術論のインパクトは、ある意味で黒船の開国論による明治維新の変革に匹敵するものであった。そのことを俳人は常に忘れずに、著作権の保護を受けられるよう芸術性の向上に向って努めるべきである》に至って、大高氏と私の俳句観が決定的に違うことに気づき、こう考える人たちもけっして少なくないだろうから、これはこれでそうですかと言うしかないのだと思った。
●遠藤若狭男「命短し棄てよ類句」 p35-
大高氏の法律から俳句をとらえるかのような視点よりは、この遠藤氏の取り上げた本歌取りというテーマの方がはるかに俳句的であるのは間違いない。
そもそも江戸時代までこの国には著作権などという考えは存在しなかった。
文芸も美術も音楽、芸能も、その基本姿勢は「まねぶ」であった。
真似て学ぶ。
全て継承する流れの中で刻々と変化し続けるのを良しとしてきた。
本歌取りはそうした姿勢の典型的な方法である。
かつて模倣と批難された寺山修司の短歌を例に挙げて、《本歌取り・・・・・・というのは、『新古今』や寺山修司の例を見れば分かるとおり、詩歌の世界では前向きなものであり、インパクトのあるもの》と定義する。
しかし、そうは定義しても全てが片付かないのが類想類句という問題のいやらしさで、遠藤氏も《類想は必要ですが、類句はご法度というのが俳句の鉄則・・・・・・まことに厄介なものです》と言わざるを得ず、《類句と指摘されたなら、いさぎよく取り消す》というよくある意見に落ち着いてしまう。
結局は、作品の出来と、作者の意識に帰結してしまうのは、当然のことなのかもしれない。
(明日に続く)
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