2009年2月15日日曜日

●さいばら天気 マイナー性にまつわる彼らの気分 〔上〕

マイナー性にまつわる彼らの気分 〔上〕

さいばら天気

『俳句空間・豈』第47号(2008年11月)より転載
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです


ずいぶんむかしNHKのテレビ番組「青年の主張コンクール」は、見たことがある。十代だった私も周囲の友人も、この番組で主張を披瀝する青年たちを気恥ずか しい思いで眺めた。独特の抑揚(私の主張を知って!)、大袈裟な身振り(私を見て!)。一方で「斜に構える」スタイルを早くに身につける子どもがいる。私 たちもそのタイプだったろう。声高に主張する若者も、それに対してアイロニーや揶揄を投げかける若者も、どちらも生硬といえば生硬。でも、乱暴にいえばふ たつのタイプがあるのだろうと思う。

自分が俳句に手を染めたとき(すでに中高年だった)のことを思 い出してみると、俳句という「文芸」がどの文芸にも増して「私」や「主張」から遠いものなのだという思いがあった。「言語表現」なんて恥ずかしい、滅相もないという人間にも、これなら、それほど恥ずかしくなく楽しめるかもしれないと思えたのだ。

私の信じるところでは「俳句」と「主張」の親和性はきわめて低い。ところが、この特集では、青年たちに「主張」をさせようというのだ。そこにはなにか戦略が隠されているにちがいない。

と、まあ、このテーマについて疑り深く注意深く探りを入れながら、現在の俳句好きの青年たちが、主張とまで行かなくとも、どんな思いを抱いているのか、その話題に移る。

大学生や二十代で俳句をつくっている人たちと、句会やインターネット上のやりとりを通して親交をもつようになった。彼らをひとくくりにはできないし、それほど深いつきあいがあるわけでもないが、彼らの気分やノリのようなものは、ある程度知っていると言ってさしつかえないと思う。そのうえで彼らの〔俳句=マイ ナー文芸〕に関するアンビバレンツについて。

世の中には音楽やらスポーツやら実業やら、また文芸にても小説やら、青年がみずからの時間と労力を費やすに足るメジャーな分野はたくさんある。「何が悲しくて俳句なんぞに」と、私までもが自分のことを棚に上げて、目の前の青年に聞いてみたくなる。だが、なにかを愛してしまうことに理由はない。好きだから、やっている、というにすぎないのだろう。

また、ここでいうメジャー/マイナーは軽々しく世俗的な意味であって、そんなものに拘泥する必要はないのかもしれない。だが、青年のなかには、自分が愛して しまったものが広い世間から見れば奇妙に矮小な存在であることに悔しさのようなものを感じ、俳句がマイナーであることを脱する日がいつか来ると信じている人がいるような気がする。

では、このマイナー性の成分とはなにか?

ひとつには俳句が「手習い」的に趣味として親しまれていること、その「非・文学性」。

もうひとつは、作り手と読み手の人口がほぼ拮抗する現状。「作る」と「読む」が自給自足の閉鎖系のなかで循環する「俳句村」状態からくるマイナー性。この基 本構造の上に、自費出版でしかない句集出版、批評の不在、プロトコル化した俳句評価など、さまざまな「俳句の現在」「俳句の風景」が成立している。

さらには、他分野との浸透・連携の不足。俳句が、隣接分野(川柳・短歌・現代詩など)と関連する機会が、彼ら青年たちには見えない。文芸の潮流とは無縁に、 それこそ古井戸のなかで言葉がふつふつ編まれ読まれるかのような孤絶。「同時代性」の欠如は、マイナー感を増幅させるものだ。

(明日につづく)


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