〔中嶋憲武まつり・第3日〕
昭和五十六年のエガワ
中嶋憲武
その年の江川は凄かった。巨人に入って3年めのシーズン、江川はそれまでの2年間の不本意な成績を払拭するかのごとく、三振の山を築いていた。
とくに目を見張ったのは、終盤になって球速が落ちるどころか、むしろますますその威力を増し、9回に入っても尻上がりに調子がよくなって、150キロを越す球をぽんぽん抛る芸当の出来ることだった。
居間で父と江川の快投に酔い痴れているとき、電話が鳴った。立って隣のダイニングルームへ行き、黒い受話器に耳を当てると、ササモトさんからだった。
ササモトさんは、銀座五丁目にあった飲茶の店でのアルバイト仲間で、ササモトさんの彼のことで相談に乗っているうち、なんとなくしばしばふたりで会うようになってしまっていたのだった。
「いま、何してた?」とササモトさんは訊いてきた。
「野球みてた」
「明日さあ、買い物につき合ってよ」
「3限のあとならいいけど」
「じゃ、4時に和光のところね」
というと、電話は切れた。
たぶんササモトさんは明日のアルバイトを早番で入れているのだろう。それにしてもいつも一方的なのである。ぼくがうかうかと毎日誘いに応じてしまうからいけないんだろう。
ササモトさんは西武新宿線の沼袋に住んでいて、髪を長く伸ばして色白の丸顔にそれがよく似合っていた。いつも黒っぽい服装をしていたので、清瀬とか保谷あたりの不良少女というか、その年デビューして2曲めの「少女A」という曲がヒットチャートを急上昇している歌手の中森明菜かという雰囲気だった。
彼とのことはあまり話さなくなっていたし、まったく会っていないようだった。でもぼくにはうすうすわかっていた。ぼくが、彼の代用品であり彼との縒りが戻るまでのつなぎだということを。
アルバイト先では、ササモトさんはてきぱきと仕事をこなし、愛想もいいのでお客さんや店長、アルバイト仲間からのウケがよかった。ぼくはそこでアルバイトを始めたばっかりで、要領の悪いほうであるし、飲み込みも悪いので、いつもぐずぐずと仕事していた。
ササモトさんと同じシフトのときは、仕事が終るとササモトさんが先に店を出て、隣のビルの地下にある「るふらん」という喫茶店で待ち合わせるのが常であった。腹が減っていればピザトーストと紅茶、賄いで満腹であれば紅茶かコーヒーだけというのが、いつものオーダーだった。
たまたまその日は、ぼくが上石神井の後輩の下宿を訪ねることになっており、沼袋まで一緒に帰ろうということになった。
丸の内線で新宿まで行き、そこから西武線に乗り換えた。西武新宿線に乗って、並んで座るとササモトさんは、
「ねえ、ライオンズジュースって知ってる?」と聞いてきた。
なにそれ?と聞くと、西武ライオンズの選手の写真が印刷されたジュースで、西武線沿線にしかないのであるという。ぼくはそのローカルさに心が動き、飲んでみたいと言った。そのジュースは沼袋駅の近くの自転車置き場の自動販売機にあるというので、一緒に沼袋で降りることになった。
沼袋駅で降りて、寂しい道をちょっと歩き、自動販売機でライオンズジュースを買う。ベンチがあったので、並んで腰かけジュースを飲んだ。普通のオレンジジュースだった。
「普通だね」というと、
「でもライオンズだし」と中途半端な答えが返ってきた。
暗いベンチで、アルバイトのことや最近観た映画のことを話しているうち、ぽつぽつと雨が降ってきた。ササモトさんが、
「今日は妹がいないから、家に来ない?」と言った。ササモトさんは妹と二人暮らしをしていた。後輩の下宿の件は明日行くことにして、後輩へ電話し、じとっとする雨に濡れてササモトさんの家へ行った。
ササモトさんの家は駅から10分ほど歩いたところにあった。建て売り住宅のような2階家だ。玄関へ入ると、樟脳の匂いがした。
ササモトさんがリビングのテレビを点けると江川が投げていた。6月の半ば頃になっていたが、巨人は快調に勝ち星を増やし、スポーツ新聞の見出しに「巨人、優勝確率70%」と大きく出ていた。
ふたりでテレビを眺めていたが、ササモトさんが「お風呂に入ってくるね」と言って浴室へ行った。
ぼくはリビングで、ずっとテレビを観ていた。その夜の江川もやはり凄かった。怪物という言葉を今さらのように噛み締めていた。
ササモトさんは風呂から上がってくると、ショーツの上に大きめのTシャツを着ただけで、座ってライオンズジュースを飲み、髪を乾かしはじめた。
テレビでは、江川が困ったような顔をしてヒーローインタビューを受けていた。
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