〔中嶋憲武まつり・第16日〕
昭和五十六年のカケフ 下
中嶋憲武
ぼくは、「いいよ。いつにする」と聞き返した。サカノはちょっと考えて、冬休みに入ったらかな」と「北の家族」の赤い灯を見ながら言った。サカノはすでに就職を決めているらしく、冬休みといっても受験勉強の必要がないのであった。こいつ、本当にぼくの家に来るつもりなのかなと考えていると、向こう側に準急が来た。準急のドアが開いて白い蛍光灯の光のなかから、たくさんの着膨れた人々が降りて、この各停にどっと乗り込んで来た。席を詰めるためにサカノは、ぼくにぴったりと肩を寄せた。一気ににぎやかになった電車のなかで、ぼくとサカノは顔を見合わせて微笑んだ。
クリスマスまであと一週間と年の瀬も押し詰まり、大学ではぼちぼち期前試験が始まっていた。フランス語の試験を終えたぼくたちは、学内の喫茶室でお茶を飲んでいた。「カケフが藤田平と一緒にベストナインに選ばれとるやん。こいつ、打席に入ると自分のバットを必ず見るだろ?」とニッカンスポーツを読んでいたイデが言った。阪神のカケフは4番に定着し、われらがエガワと幾多の名勝負を繰り広げていた。確かにカケフは、打席に入ると一回自分のバットを拝むようにして見上げる。「来年もエガワ、20勝するかな?」と、神戸生まれの神戸育ちにも関わらず、巨人ファンのイデがぽつりと言った。ぼくはエガワの来年の20勝よりも、今夜のササモトさんとのデートの方が気になっていた。
ササモトさんとその彼とは、いまだに全く切れてはいないらしいが、かと言って逢ってもいないようだった。ぼくは、ササモトさんにとって復縁までの彼の代用品であることは、うすうす分かってはいたけれど、頻繁にササモトさんの家に行ったり、逢ったりしているうちにササモトさんの態度にいらいらするようになっていた。ササモトさんの態度?いや、ササモトさんに対する自分の態度に、であろう。ササモトさんを好きになったとは自覚していなかったのだけれど、第三者からみればありありと分かった筈だ。この半年という期間は長過ぎた。半年前の梅雨のある夜、沼袋の駅で降りて、ふたりでベンチでライオンズジュースを飲んだ。そのときからぼくは多分ササモトさんを好きだったのだ。蹉跌となる前に一度、その事をじっくり考えてみるべきだったのだ。ササモトさんの本当の気持ちというものとともに。
サカノは、ウチに遊びに来る気はないようだった。「今度、お邪魔するね」と口では言うものの、具体的なその段取りとなると、いつの間にか鳥は飛んで行ってしまうのだ。女子高生の気まぐれという奴だったのであろう。アルバイトの帰りに混んだ電車のなかで、座ることが出来ず、春日部まで立って帰ったその夜、映画に誘ってみた。サカノはとても喜んだ。20日から冬休みだから、その第一日めにということで、銀座に封切られたばかりの「レイダース」を観に行くことになった。
約束のその日、朝から雪が降りそうな寒い日で、おまけに劇場はとても混雑していた。最初は調子よく画面に見入っていたのであるが、寒くて朝からコーヒーを飲み過ぎたせいか、トイレが近くなっていた。後半のラスト近くなって、画面を観ていることさえ辛くなってきた。「おしっこがしたい」という欲望が強くしゃしゃり出て来て、ついに我慢の限界を超え、「ちょっとトイレに行ってくる」とサカノに囁くと、人をかき分け通路に出、非常口から廊下に出た。廊下もトイレも、いまのように完全入れ替え制ではない時代だったので、次の回を待つ人でごった返していた。いらいらとトイレで並び、用を済ませて席へ戻ると映画は終っていて、マーチ風のテーマ音楽が流れ、スタッフのクレジットがロールアップしているところだった。サカノはいいところでひとりにされたので、とても不機嫌になっていてろくすっぽ返事をして貰えなかった。映画館を出て、お茶でも、と言うと、これから友だちと待ち合わせてるから、ここで、と言う。マリオンの前でサカノと仕方なく別れた。サカノの後ろ姿を悄然と見送って、有楽町をすこし歩いて、コリドー街の古い喫茶店に入った。
サカノは、一緒に映画を観て以来、アルバイトにも顔を出さなくなり、ひとりで帰る日々が続いた。店長に何気なくサカノのことを尋ねると、卒業や就職のことで忙しく、アルバイトも辞めるかもしれないと言ってきたということだった。
店は大晦日に近づくにつれ、忙しさの度合いが増した。アルバイトが終るとどっと疲れてしまって、まっすぐ家に帰るようになった。ササモトさんもこの頃、アルバイトに顔を出さない。今夜、電話をしてみようと思った。
(了)
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