〔中嶋憲武まつり・第15日〕
昭和五十六年のカケフ 上
中嶋憲武
その当時ぼくは授業が終ると、真っ直ぐにアルバイト先へ行くのが日課のようになっていた。ほとんど毎日アルバイトを入れていたし、休日ともなると開店から閉店まで12時間、アルバイトを入れた。そのような入りかたは「通し」と呼ばれ、アルバイトの仲間からは、畏怖とも尊敬ともいえるようなまなざしを送られた。無論、ぼくの他にも「通し」をする者はいて、ある者は5日連続を敢行し、これはアルバイト仲間の伝説となった。
ぼくのアルバイト先は、銀座にある飲茶の店で、点心類をワゴンに載せ、ゆっくりと店内を廻って売り歩くのがセールスポイントとなっていた。デリカテッセン、海鮮、焼き物、鹹点心、甜点心とワゴンは全部で5台あった。デリカテッセンのワゴンは、蒸し鶏や鴨のロースト、ピータン、バラ肉などの皿が載り、海鮮のワゴンは、シジミを醤油で煮たもの、烏賊のボイル、海老のボイルなどの皿が載り、焼き物のワゴンは、注文を受けてからワゴンの上の鉄板で大根餅、湯葉などを焼いて出し、鹹点心のワゴンは、焼売、肉饅、包子、春巻きなどの蒸篭が載り、甜点心のワゴンは、月餅、マーラーカオ、薩奇馬、杏仁豆腐などのデザート類が載った。
アルバイトの仲間たちは、それぞれ相性のいいワゴンというものがあり、海鮮ばかり廻す者、焼き物ばかり廻す者、デリカばかり廻す者と暗黙のうちに廻すワゴンが決まっていた。ぼくは、おもにデリカのワゴンを廻し、ときどき焼き物のワゴンを廻した。焼き物のワゴンは、高橋国光を崇拝するキタさんが主に廻していたのだが、キタさんが休みのときや、パントリーに入っているときは、ぼくが廻していた。キタさんは休日はもっぱらツーリングに行くという大のバイク好きで、店がヒマなとき、焼き物のワゴンがカーブに差し掛かると、リーンインの体勢を真似て、「ばばばば、ぎゅいーん」などと言いながらコーナーを廻って、デリカのワゴンのぼくを見返ってにやりとしたりした。
ぼくのうしろに海鮮のワゴンを廻しているササモトさんが続いた。ササモトさんはぼくより2つ下で、新宿にあるキーボードの専門学校に通っていた。彼とあまりうまく行っていないようで、なにかと相談に乗ったりしているうち、ふたりで会うようになり、半年前ササモトさんの家へ上がってしまってから、ササモトさんの妹の留守(ササモトさんは妹と二人暮らしをしていた)のときはササモトさんの家へ行くようになっていた。
ササモトさんは、カチューシャの前髪を気にするしぐさをした。ぼくは、あごを触った。これはふたりだけのサインで、前髪を気にするしぐさは「今夜、ウチに来ない?」と言っているのであり、あごを触るのは、「いいよ」と言っているのである。「今日はだめだな」と言うときは、鼻をこするのである。そのようなやりとりを、ササモトさんのうしろにいるデザートのワゴンを廻すサカノが見ていた。サカノは大きな悪戯っぽい目でぼくを見ていた。ぼくは、悟られたわけでもないのに、どぎまぎとした。蒸し鶏に添えるシャンツァイを長い象牙の箸で、意味もなく掻き回した。
サカノは、ぼくと同じく春日部に住む春日部女子高の3年生だった。目が大きく、色が浅黒く、ちょっとエキゾチックな顔立ちをしていた。アルバイトが一緒に終るときは、サカノとぼくは春日部駅まで一緒に帰った。サカノと肩を並べて東武電車に座り、せんげん台駅で準急待ちをしているとき、「準急が来るから乗り換えようか」とサカノに言うと、「疲れちゃったから座っていこうよ」と言った。準急が来るまで、開きっぱなしのドアから見える真っ暗な風景を見ていた。暗闇に「北の家族」の赤い灯が寒そうに瞬いていた。サカノは出し抜けに「こんど、家に遊びに行ってもいい?」と言った。
(明日に続く)
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