夜のぶらんこ(上)
中嶋憲武
うどんを食べにいきましょうと誘われ、待ち合わせることにした。
以前にも二三度いったことのある店だ。
待ち合わせの駅に着くと、薄暮のやや青みがかった空間にぽつんと鳥子さんはいた。駅の殺風景な蛍光灯が白さを増してゆく時間だった。
待ち合わせ場所から、霧のような会話を交わしながらうどん屋へ入った。
まず、飲みものである。
鳥子さんは中生。ぼくは烏龍茶。いつも烏龍茶では芸がないと思い、アルコールフリーのビールテイスト飲料というものを試してみようかと、目を皿のようにしてメニューを探したがない。テレビジョンとか電車の車内吊りとか、広告は目にするのだが、そのものを置いている店はすくないようである。コンビニエンスストアーとかスーパーマーケットとか、店内を隈なく回ってみたが、そのものを置いている店はすくないようである。いったいどこで飲めて、買えるのだろうか。21世紀にもなって、こんな問題で頭を悩ませるとは思わなんだ。さびしい。21世紀の寂寥がぼくを襲う。仕方なくやはりいつものやつにした。
お菜は新じゃがと鶏肉、茗荷のしらす和え、それと野菜を何品か誂えた。お店のひとが中生と烏龍茶を持ってきたとき、烏龍茶をぼくの前に、中生を鳥子さんの前に置いたかと思うと、中生をぼくの前に、烏龍茶を鳥子さんの前に置き直してのれんに引っ込んだ。その所作が風のようにさり気なく、マイケル・ジャクソンのターンのように素早かったので、微笑を禁じ得なかった。そのお店のひとのものの考え方や、生活態度の一端が垣間見えたような気がして、おかしかったのだ。
茗荷のしらす和えをつまみながら、この前この店に来たときの話などをした。鳥子さんは箸を巧みに美しく操作する。ぼくは箸の使い方があまり得手ではないので、そこを見抜かれないように気を配りながら喋った。箸を巧みに操作出来ぬという一点を取ってみても、社会人として機能していないのではないかと、自らの欠陥を顧みる。鳥子さんは、そんなぼくの怯えにはまったく無頓着のように、にこにこと話しつづける。
ものを写生するときは、ものをそのまま描いてはいけないのだと言われたという。
ものを描いている気分とか湿度みたいなものを描き込むことこそが、肝要なのだそうだ。そんな話をするので、最近絵に関心があるのかと聞くと、ううん、全然と言って笑った。
(明日につづく)
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