春の部(三月)啓蟄
猫髭 (文・写真)
啓蟄の河鹿に水を湛へけり 宮部寸七翁 大正13年
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけり 吉岡禅寺洞 昭和5年
風吹いてあゆみとゞむる地虫かな 俳維摩 昭和4年
「啓蟄」。今年は今日3月6日(土)から「春分」の前の日の3月20日(土)までが、二十四気の「啓蟄」の「気」(15日間)にあたる。「陽気地中にうごき、ちゞまる虫あなをひらき出ればなり」(『暦便覧』)。今やお天気お姉さんと俳人くらいにしか馴染みのない言葉だが、西村睦子の『「正月」のない歳時記』に拠れば、二十四気の「啓蟄」を季題として詠み出し、定着させたのも虚子だという。
土中に蟄伏して冬眠してゐた蟻や地蟲の類が春暖の候になつて、その穴を出づるのをいひ、又啓蟄といつて直に穴を出る蟲をいふこともある。暦でも二十四気に啓蟄といふのがあつて、丁度三月五日頃、蟲類の穴の出る頃にあたる。地蟲穴を出づ。地蟲出づ。蟻穴を出づ。地蟲。また、関連して「初雷」の季題には「立春後初めて鳴る雷の事で、三月啓蟄の候よく鳴るところから、地方によつては之を蟲出(むしだし)などともいつて居る」とある。冬眠している虫や動物たちに春の目覚めを告げる目覚し時計が「初雷」というわけだ。確かに去年は東京駅の地下街から出た途端「初雷」に見舞われた。
この「三月啓蟄の候」の「候」というのは、「気」(15日間)を三つの「候」(5日間)、「初候」「次候」「末候」に分け、その「候」ごとの解説をつけるもので、これは中国(宣明暦)と日本(宝暦暦・寛政暦)とではお国柄で少し違う。例えば「末候」は、中国では「鷹化して鳩と為る」だが、日本では「菜虫蝶と為る」というように。
お天気博士、倉嶋厚の『季節の366日話題事典』(東京堂)から、この二十四気七十二候をおさらいすると、陰暦だと月の満ち欠けで月明りや潮の干潮を知る目安にもなったが、月の満ち欠けの周期を一ヶ月(朔望月)とすると、一朔望月は29日半なので一太陽年に比べて11日短く、そのまま時を刻むと、8年後には正月が秋になるので、陰暦では19年に7回、閏月を置いて一年を13ヶ月とし、季節とのずれを調整していた。つまり、陰暦は日付で季節を判断することが出来ない暦である。
対して陽暦は地球が太陽を一回公転する期間を一年としており、地球が自転軸を公転面に直立せずに約23度30分傾けて公転しているため、太陽の地球に対する照らし方が一年を通じて規則正しく変化することから季節が生じる。つまり、陽暦は季節の変化を判断するのに合理的で便利な暦ということになる。
そこで、陰暦の上に二十四の陽暦の「気」を刻んで季節を判断できるようにした「太陰太陽暦」が、いわゆる旧暦である。「候」はさらに「気」を三等分して細分化したもので、「気候」という言葉は二十四気の「気」と七十二候の「候」を足した呼び方というわけである。
なお、「二十四節気」と呼ぶようになったのは、明治以降で、中国や日本の古い文献は「二十四気」であり、その方が言いやすいので、本稿でも「二十四気」を用いる。
虚子の二十四気の季題の選び方は、西村睦子も書いているが、虚子が詠んだから「ホトトギス」の投句者も従ったので、虚子が興趣を感じること薄い二十四気は、例えば春では、「雨水」「春分」「清明」「穀雨」は『新歳時記』から落とされて、「立春」と「啓蟄」だけが載っている。勿論、「ホトトギス雑詠全集」では詠まれているのだが、「季題」として歳時記に立てるだけの興趣を虚子は感じなかったということだろう。
上田信治「週俳」編集子の書評のタイトル『ひとりのおっさんが好きに決めた部分』(註1)には思わず笑ったが、逆に、この虚子の揺るぎない独断こそが「ホトトギス雑詠選集」の「選」の営為を支え、『新歳時記』の「新」を生み出し、山本健吉編の『季寄せ』に代表されるような、二十四気七十二候や忌日表を付録とし、「ホトトギス」以外の作品も例句に採る後世の歳時記を生んだ膂力と言える。
随分孤独な独断だったことだろう。
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宮部寸七翁(みやべ・すなおう)(註2)の掲出句の「河鹿」は雄の美声を楽しむ夏の季題だが、ここは「啓蟄の河鹿」なので、冬眠からさめた河鹿である。既に我が家の裏手の巡礼古道にある池は1月の末から禍々しいほどの蝌蚪の紐で埋め尽くされ、今朝覗きに行って見るとぴちぴちと泡を吐く音が立ち上るほどびっしりとお玉じゃくしが蠢いていたが、こんなに早く卵を生むのは河鹿ではなく蟇蛙である。河鹿は渓流の石の下に卵を生むが、掲出句は春の光に満々と水を煌かせる渓流を思わせる。河鹿は声を楽しむために飼育もされるが、飼われると冬眠をしないから「啓蟄の河鹿」とは言えまい。
吉岡禅寺洞(よしおか・ぜんじどう)(註3)の句は、地虫が穴から押し出した土を掃いているかの如く春の陽気が躍動するような一句であり、「啓蟄」の句の中でも惚れ惚れする秀句だが、『新歳時記』では、座五が、
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけれ 禅寺洞
と已然形になっている。『ホトトギス百年史』(花神社、平成8年刊)によれば、禅寺洞が新興俳句運動に傾いて日野草城とともに「ホトトギス同人」から削除されるのは昭和11年10月号からだから、歳時記に掲載された昭和9年にはまだ没交渉ではなかったはずで、禅寺洞の推敲とも取れるが、どう考えても「けり」と終止形で言い切った方がいい句であり、この句を掲載する他の歳時記もすべて座後は「けり」である。これは誤記だろう。虚子は選する場合、添削することが少なからずあると聞いているが、已然形は係り結びで「こそ」の結びとなり、「ば」「ど」「ども」などの助詞を伴って、順接・逆接の確定条件を表すから、
啓蟄のつちくれ(こそ)躍り掃かれけれ(ども・ば・ど)
といった切れを曖昧にする添削を虚子がするとは思えない。
俳維摩(はいゆいま)は大阪の俳人とのみで委細不明。後日調べたい。
「地虫」とは甲虫目コガネムシ科の食菜類の幼虫の俗称だが、ここでは地中にすむ虫の総称。小さな虫の触角までが風に揺れてとまどう様まで見える目線の低い佳句である。
掲出の三句は、「ホトトギス雑詠選集」三月中の「啓蟄」から波多野爽波が抜粋して弟子たちに読んで書き取りをさせ暗誦させた句でもある。山本健吉編の歳時記や大歳時記には載っているが、『角川俳句大歳時記』には載っておらず、『ホトトギス雑詠選集』からは、
己が影を慕うて這へる地虫かな 村上鬼城 大正3年
蟻出るやごうごうと鳴る穴の中 村上鬼城 大正11年(註4)
啓蟄の土洞然と開きけり 阿波野青畝 昭和7年
地虫出て金輪際を忘れけり 阿波野青畝 昭和7年
啓蟄を啣へて雀飛びにけり 川端茅舎 昭和8年(註5)
が引かれている。皆インパクトのある句だが、虚子は歳時記に載せるには雑詠選とは異なる基準を立てており、例えば茅舎の句などは、啓蟄は「時候」だから、雀が嘴で銜えるものではないだろうという「常識」を利かせて落としている。青畝の「洞然と」「金輪際」も然り。大仰過ぎるというところだろう。
鬼城は別格で、
君の句は主觀に根ざしてゐるものが多いにも拘らず、客觀の研究が十分に行屆いてゐて、寫生におろそかでないといふことも是非一言して置く必要がある。と、大正7年の『進むべき俳句の道』で、そのオリジナリティを放任状態だった。鬼城は「ホトトギス」に拠ったが、「ホトトギス」以前に出来上がっていた鬼才と言える。
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最後に七十二候で思い出したエピソードがあるので付け加えておきたい。
昨年の三月、波多野爽波の結社「青」で爽波から薫陶を受けた俳人たちと淡路島吟行の機会があった。わたくしはいつも吟行というと、弁慶が七つ道具を背負うように、明解国語辞典や歳時記(最低三種類)や文法書や図鑑やデジカメやパソコンやらを、引越しのように詰め込んで出かけるのだが、彼らはほとんど手ぶらに近く、歳時記すら開いているのを見たことが無いので不思議だった。たまたま観潮の船着場までタクシーで同席したとき、薄い手帖を見ているので、何ですかそれと聞くと、手書きで一週間毎の季題が書かれた私家版歳時記だった。
爽波先生は、季節は一週間ごとに変わるんですから、句会ごとに身の回りの季題を抜き出して、その句会用の自分だけの歳時記を作って臨みなさいとおっしゃってました。心の中に身近に見かける自分の好きな季題を置いておくと、景を見るとその中に季題がするすると独りでに出てゆくんです。そういう季題は動かないんですよ。ですからね、俳句を作る時に歳時記なんて見る必要ないんです。これには驚いた。爽波の弟子たちは、句会ごとに七十二候の「候」の歳時記を句会ごとに作って、それを心に置いて吟行や句会に臨むことを何十年も繰り返していたのである。自然をあるがままに詠むということに、ここまで謙虚に礼を尽して臨めば、季節と喧嘩しない句が生まれるのも道理である。
(爽波)先生はよく季題をえらび取るという言葉を使われた。この言葉を取り違えて季題はくっつけるものと思いこんでいる人が随分とある。えらぶということは、結果的にはそうではあっても、句の中へえらびとるのではなく、心にえらびとるということなのだ。そのときそのときの季に応じてえらびとった手応えのある季題を、常時心にあたためていてこそ、時に応じ期に応じ、多彩に、自然に、的確な季題が言葉とともにすべり出てくれるのだ。(西野文代『爽波ノート』より「心をくぐる」)今週は先週とは打って変って10℃以下の寒い雨の日が続き、やっと金曜日、啓蟄前日に谷戸の上に青空が広がった。日本で作られた「啓蟄」の候の季節記事には、
初候 素蝶(はくちょう)花を尋ねる
次候 木筆(こぶし)空を尽(きわ)む
末候 李花雪の如し
とあるという。どれ、犬のふぐりや、啓蟄の穴や、鷹が鳩に化けたり、龍が天に昇るのを見に行くか。
註1:http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/02/blog-post_8680.html
註2:宮部寸七翁。明治20年~大正15年。本名は寸七郎。熊本県出身。虚子の「ホトトギス」と吉岡禅寺洞の「天の川」に拠り、歿後吉岡禅寺洞編『寸七郎句集』(昭和4年)が出された。
註3:吉岡禅寺洞。大正7年~昭和36年。福岡県出身。本名は善次郎。福岡で「天の川」を創刊、のち主宰。富安風生、芝不器男等をそだてる。昭和4年「ホトトギス」同人となるが、新興俳句運動にはいり、日野草城とともに昭和11年10月号で除名された(同号で杉田久女も除名になり、禅寺洞と草城は新興俳句で反旗を翻したというので予想されたことだが、久女は師恋の弟子であるため、こちらの方が話題になった)。戦後、口語俳句協会会長。句集に『銀漢』『新墾(にいはり)』。(講談社デジタル版日本人名大辞典+Plusに加筆)
註4:「ごうごう」の表記は、くの字点(濁点)を使った踊り字だが、横書なので表記を平仮名とした。
註5:筑紫磐井選は「銜へて」を「啣へて」に直して挙げている。これは「銜」の字源が馬の口を取る「轡(くつばみ)」の意なので、口で啣えるという意による表記への校正と思われる。
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