2010年3月7日日曜日

●俳句に関する20のエッセイ さいばら天気

俳句に関する20のエッセイ
樋口由紀子「川柳に関する20のアフォリズム」へのオード

さいばら天気


1 俳句はことばで作る文芸かもしれない。(すべての前提として)私的には。

2 言葉をできるだけ遠くにいきおいよくとばして、意味を希薄化・無化したとき、天国的な俳句が生まれる。

3 他のなにものも書き得ない、例えば、生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが、俳句へとかかたちを結ぶこと。それは俳句の野望である。

4 俳人の多くは、意味されたもの(シニフィエ)のおもしろさには敏感に反応するけれど、言葉そのもの(シニフィアン)のおもしろさには無関心で、それをおもしろがることに(ある種倫理的な抑制から来る)ためらいがある。

5 俳句はしばしば、書き手と読み手の関係をうまく取り扱えない。書き手が単一のイメージを動員した句が、読み手に多様なイメージを喚起する、あるいは逆に、書き手が多様なイメージを動員した句が、読み手に向かって単層のイメージを明示するといった〝すれ違い〟は、放置されたままだ(その良し悪しはともかくとして)。俳句において批評の貧しさがあるとしたら、その一因は、書き手と読み手が、しばしば直面する意志疎通の事故に対して臆病なこと。結果として〝すれ違い〟の起こりそうにない句(意味伝達性の高い句・共感性の高い句)とその「鑑賞」とが、互酬的に、つまり贈答のように流通し、批評とは遠い儀礼的な空間が広がる。

6 俳句的に読むとは、なにごとをも自分との関係の「外部」に置き換えること。モノやコトが在ることを、そのままに吸い込むこと。言い換えれば、自分が存在する以前にモノやコトが在るのと同様に、自分や人間が消滅して以降もなお価値の損なわれない言葉(俳句)があることに、〔自分〕を超えた希望を見出すことが、俳句を読むこと。付記すれば、偶々「人」「自分」がモノやコトであっても、いっこうにさしつかえない。

7 俳人の多く(あるいは一部)は、それ以前の俳人が築き上げた財産だけで食べていける気がしている。俳人の多く(あるいは一部)は、その逆である。翻って、俳人個人という狭隘な器(貧しい辞書、低性能の言語生成器械)にも、それ以前に築き上げた財産がある。多くの(あるいは一部の)書き手は、それだけ食べていける気がしている。あるいは、その逆。

8 風船にたとえるならば、ある俳句は、中身の空気ばかりを伝えようとする。別の俳句は、つややかなゴムの表面ばかりを伝えようとする。さて、どちらを採るか。

9 俳句は、言葉から意味のネジを一本抜く文芸である。inspired by ogawa keishu≫参照

10 季語に関する樋口由紀子の把握=「俳人の季語の使い方はメンタル」を卑近に展開すれば、「星月夜」といった見たこともないほど美しい季語に、多大な負荷をかける例がいかに多いことか。言い換えれば、季語にメタフィジカルな作用、ポリフォニックな効果を期待することのいかに多いことか。

11 俳句において「私性」は厄介な問題である。

12 女性俳句人口の増大が俳句の抒情性を開拓していく一方、「私性」をいかに書くかが技術課題となった。男性をも巻き込んだ俳句の大衆化は、「私性」というより「私事」を優先させる傾向におちいり、過度な感傷を生み、「私はこう思った」「私はこういう体験をした」などの現実を報告する句が主流を占め、自分の個人的事情を書くことが「個性」であり自己表現であるといったふるまいを生み出した。
※樋口由紀子のオリジナルにある「川柳」を「俳句」に置換ののち改変。この項とりわけ。

13 何人かの自分を見つけることは楽しいことである。しかし、彼等が残らず自分の理解者・反発者なら、それは「自分」を確固たるものと信じるための使用人に過ぎない。自己という錯覚、自己という物語を、覚醒的に眺め、読むために、何人もの自分が必要なのだ。

14 吊りかごの中から春の足を出す  佐藤みさ子『呼びにゆく』
吊ったのは誰か。足を出しのは誰か。句の行為者のデフォルトについて「それは作者」という慣用に従うなら、この句には齟齬が生まれる(私が吊った籠から私が足を出す)。私はもっぱらもうひとつのデフォルト解釈を用いる。「それは誰でもない」。

15 肉体は片付けられた紅葉狩り  樋口由紀子
肉をもつ獲物から、肉を持たない(しかし血の色をした)紅葉への変換が、句のごく一部(2文字)で起きた。「狩り」という隠喩を端緒とする一点突破。

16 近年になっても「思い」という俳句にとって厄介な成分を盛り込んだ作品が多く生み出される。あなた(書き手)の「思い」に、わたし(読者)は、まったく関心がないのに。

17 言葉を扱う俳人や川柳人が「消費社会」を否定的に扱うのは、とても不思議だ。記号として消費されることは文芸の(消費社会出現の遙か以前からの)宿命であり、「そう読まれてしまうこと」をいかにくぐり抜けるかは、作り手の専任事項。一方、それより歴史の古い大量消費社会という20世紀的枠組においても、俳人や川柳人は、印刷=複写という、きわめて大量消費社会的手段によってしか「作家」たり得ようとしない、この点をどう説明するのだろうか。

18 俳句の一句全体が、比喩としてでなく、つまり言葉そのものとして新たなイコンであるような俳句。

19 俳句の諧謔という問題。バナナの皮で滑って転んでも笑えないが、バナナとの邂逅を、おなじみの笑いの「伝統」を梃子にして、ニッチな諧謔を生み出すことはできる。

20 それはこういうことだ。〔凡庸さ〕と〔それを逃れること=非凡〕とが、遠く離れて対照を成すのではなく、このふたつが紙一重の場所にあること、私たちを貧しくするものと豊かにするものとが相互に干渉し合う近距離にあることを、よく知ること。これこそが「俳句をする」ことなのだ。

週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

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