2010年7月18日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔27〕夕立・下

ホトトギス雑詠選抄〔27〕
夏の部(七月)夕立・下

猫髭 (文・写真)


和歌には「歌枕」(「和歌を詠むときに必要な歌語・枕詞・名所など(大辞林)」)がある。芭蕉の『奥の細道』は、「序文」に「春立る霞の空に、白川の関こえんと」とあるように、能因法師の和歌「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を踏まえて「歌枕」を辿る旅であり、「草加」で述べる「耳にふれていまだ目に見ぬ境(場所)」とは、ずばり能因法師や西行や宗祇が辿った「歌枕」のことである。

時代が下ると、俳句にも「俳枕」が生まれ、辞書にも「俳句に詠まれた各地の名所・旧跡」(大辞林)と載っている。昭和51年版の「広辞苑」第二版には載っていないので、昭和末期の造語かと思われる。「俳枕」と題した本や連載はこの頃から見かけるから。俳句は和歌の連歌から派生しているから、「歌枕」のままでもいいと思うが、和歌と違って、俳句は歌語や枕詞を詠み込むには土俵が狭くて勇み足になるので、もっぱら「名所・旧跡」になることが多く、それも手近なところで、何らかの四季の見所のある場所に出向く、草枕的詠み方が一般的だから、「歌枕」の古代からの伝統美よりも目線を低くした「俳枕」という言葉を生み出したのだろう。

ところで、「歌枕」と「俳枕」の違いについてだが、名所旧跡選定の目線の高低という以外に、伝統美の世界の違いもある。「秋風ぞ吹く白河の関」という、一躍「白河の関」を「歌枕」にした和歌は、【能因は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながら此の歌をいださむ事無念と思ふて人にもしられず久しく籠居で、色をくろく日にあたりなして後「みちのくのかたへ修業のついでによみたり」とぞ披露し侍ける】 (『古今著聞集』)と評されたように、実は「見たことも来たこともなき白河の関」でも「歌枕」は美学として詠めるのに対して、「俳枕」は実際に「草枕」としてその場に杖を止めて詠むという違いがある。

「週刊俳句」に連載されている広渡敬雄氏の「俳枕」シリーズ(「青垣」からの転載)は、様々な俳人が各地の「俳枕」で詠む俳句が面白く、わたくしは楽しみに詠んでいるが、これらの「俳枕」は現地に実際に立って詠まれたものである。やはり、芭蕉の『奥の細道』に倣って、その土地へ行って授かる句のリアリティが句の味わいを作り、それは土地への挨拶句ともなるので、詠まれる方も「御当地ソング」の乗りで郷土愛を刺激されるのだろう。わたくしも実家の大洗や那珂湊で歌人、俳人、詩人、画家、小説家が作品を残すと、親しみを覚える。森進一が那珂湊の体育館で「港町ブルース」の最後にお愛想で「那珂湊」と入れるとやんやの喝采をするようなものか。

芭蕉の顰に倣ったのか、近松門左衛門の心中物、例えば『心中天の網島』の道行「名残の橋尽し」などは、歌枕のように死出の黄泉の橋を渡る。
頃は十月十五夜の、月にも見へぬ身の上は、心の闇のしるしかや、今置く霜は明日消ゆる、はかなくたとへのそれよりも、先に消え行く閨の内、いとしかはひと締めて寝し、移り香もなんとながれの蜆川、西に見て朝夕渡るこの橋の、天神橋はその昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び梅田橋、あと追ひ松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、後にこがるる桜橋、今に話を聞渡る、一首の歌の御威徳、かかる尊きあら神の、氏子と生れし身をもちて、そなたを殺し我も死ぬ。
それを受けての、上田秋成の『雨月物語』「白峰」は、崇徳院の悪霊が登場するだけに格調高歌枕の流れに西行が足取りを辿るもので、見事な歌枕文と言える。
あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々。むらさき艶ふ武蔵野の原、塩竃(しほがま)の和(なぎ)たる朝げしき、象潟の蜑(あま)が笘(とま)や、佐野の舟梁(ふなばし)、木曽の桟橋(かけはし)、心のとゞまらぬかたぞなきに、なほ西の国の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を経て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の真尾坂の林といふにしばらく笻(つゑ)を植(とゞ)む。草枕はるけき旅路の労(いたはり)にもあらで、観念修行の便りせし庵なりけり。
近松の心中物は実際の心中事件に基づいたものであるから、実にスキャンダラスでリアリティがあり、それを無常の調べに乗せて、見事な美文で語るから、当時の観客の熱狂はさにあらんと思うが、秋成の美文もまた陶然となる調べを持つ。

俳句は十七文字の定数律を持つから、近松や秋成のように嫋々と述べることは出来ないので、祖母山や傾山といった地名が物語を持つような調べを持つ場所を選ぶ事が多い。しかし、「歌枕」は美学として詠めるのに対して、「俳枕」は実際に「草枕」としてその場に杖を止めて詠むという違いがあると述べたが、実はこの調べに入れ上げると、「歌枕」と同じように、「耳にふれていまだ目に見ぬ境」を詠んで、それが名句とされる場合がある。それも、掲出句を詠んだ青邨の句にである。

みちのくの淋代(さびしろ)の浜若布寄す 山口青邨

淋代は青森県三沢市にある海岸で、日本の白砂青松100選に指定されているが、若布は採れない。青邨は「ある句会で若布の題を得て、私は淋代部落を目に彷彿した。私は淋代には行った事がないが、名前の哀れさが私にまざまざと想い描かせた。流れよる若布を拾って生活の資とする、北辺寒村を憧れる私の想像である。淋代には『浜』を添え、若布は『寄す』と表現してほっとした。のちに八戸に行った時、淋代は若布が採れますかと訊いたら、八戸には採れるが淋代はわからないと答えた。私の外遊中ホトトギス社宛に淋代は若布は採れまいと文句をつけてきた人があって、虚子先生が私のために何か弁じて下さったそうである。」と『現代の俳句・自選自解山口青邨集』(白凰社)に書いている。

虚子は何と弁じたのだろう。水原秋櫻子の「山焼く火檜原に来ればまのあたり」という空想句を「立派な主観句と云へば云へないこともない。即ち此の作者の主観によつて構成された一幅の空想画であるからである。然し此れが現実に無いかと云へば無い処ではない立派に存在し得る景色なのである。此処になると主観とか客観とか区別して論議してゐるのが幼稚な議論と云ふことになつて来る。此作者が創造した世界が即ち現実の世界になつてゐると云ふことなる」(『俳句小論』「(ト)客観詩・下」)と言っているから、似た趣旨の弁護をしたのかもしれないが、採れないものを採れると詠まれても無い袖は振れないだろう。秋櫻子が潮来で紫陽花の句を詠んで評判になったので、あわてて地元が紫陽花を植えたという逸話があるが、潮来はあやめが名物である。この「檜原」の句は、
昭和6年、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が虚子が一人で選をした『懸賞募集 日本新名勝俳句』に入選した句だと思った。

この句集は、どうして再刊されないのか不思議なほどの名著で、横綴じB6版436頁には、まさしく全国の「俳枕」のオンパレードと言って良い景勝句が並ぶ。
応募投句数は103207句、入選作は1万句、「帝国風景院賞」が20句で、以下にその20句を引くが、それ以外にも佳句は沢山あり、吟行傑作集の趣である。

    阿蘇山
阿蘇の瞼(けん)此処に沈めり谷の梅  大分 古賀晨生
噴火口近くて霧が霧雨が        京都 藤後左右

    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ     福岡 杉田久女
   赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々     東京 水原秋桜子

  大山
笹鳴や春待ち給ふ仏達 鳥取 安部東水

  那智滝
宿とるや月の大滝まのあたり      和歌山 仲岡楽南

  箕面滝
滝の上に水現れて落ちにけり      兵庫 後藤夜半

  球磨川
前舵が笠飛ばしたり山ざくら      朝鮮 広瀬盆城

  阿賀川
下り鮎一聯過ぎぬ薊かげ        東京 川端茅舎

  琵琶湖
さみだれのあまだればかり浮御堂    大阪 阿波野青畝
蘆の芽や志賀のさゞなみやむときなし  兵庫 伊藤疇坪
銀漢や水の近江はしかと秋        同 脇坂筵人

  霞ケ浦
青蘆に夕波かくれゆきにけり      東京 松藤夏山

  屋島
鳥渡る屋島の端山にぎやかに      香川 村尾公羽
野菊より霧立ちのぼる屋島かな     同 田村寿子

  蒲郡海岸
漂えるものゝかたちや夜光虫      愛知 岡田耿陽

  熱海温泉
山越えて伊豆に釆にけり花杏子    神奈川 松本たかし

  三朝温泉
蚕屋の灯のほつほつ消えぬ山かづら  京都 田中王城

  兎和野原
酒の燗する火色なきつゝじかな    兵庫 西山泊雲

  富士駿州裾野
大岩の釆て秋の山隠れけり      静岡 野呂春眠

おわかりだろうか、虚子の目論見が。以前取り上げた青畝の浮御堂の句は、大正13年の句である。懸賞応募句も勿論あるが、虚子は過去の「ホトトギス雑詠」の秀句を堂々とぶち込んでいるのである。これは我田引水の最たるもので、公平とはほど遠いと思われるが、これほど「ホトトギス」の精鋭の秀句が並ぶと、虚子単独選の凄みと当時の「ホトトギス」の作品の凄さに圧倒されてしまう。

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