秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔上〕
猫髭 (文・写真)
帆襖(ほぶすま)や二百十日の沖つ凪 佐世保 松永晩羊原 昭和2年
颱風に遭ひたる船のつきにけり 阿蘇丸 上ノ畑楠窓 昭和6年
颱風に吹きもまれつゝ橡は橡 東京 富安風生 昭和11年
『ホトトギス雑詠選集』『新歳時記』とも、九月は「二百十日」「颱風」「野分」「秋出水」と颱風に関わる季題が並ぶので、今回は関連して取り上げたい。
今週9月8日、颱風がこれほど待たれた年はないだろうというほど、颱風9号(アジア名マーロウ/Malouは、マカオ語で瑪瑙を意味する)は、一日だけとはいえ、本来の9月の涼しさを思い出させてくれるほど、「猛暑日」という下品な日本語の暑苦しさを見事に一掃してくれた。前日と同じTシャツと短パンの格好だと肌寒いほど、那珂湊は風が通った。都会と違い、漁村はすべての路地が海へ繋がっているので、風自体が涼しいし、わたくしの実家が、隙間風が縦横無尽に駆けずり回る古屋のためもあるが、日当りに出ると、皮膚をじりじりと音を立てて噛むような強烈な日差しは嘘のように消えた。降り始めの雨は傘も差さずに濡れたまま老犬と家の側の水神宮を散歩しても気持ちのいいものだった。
老犬は海まで散歩しようとすると、風に腰砕けになっていやいやをするので、ひとりで自転車で那珂川河口の海門橋まで行った。漕がなくても追い風が背中を押してくれるほどの、行きは良い良いの強風だった。那珂湊は、海へと下り来る那珂川の淡水と、川へと打ち寄せる常陸沖の海水がせめぎあい、颱風の余波で打ち寄せる波も、河口では打ち消しあって、いつもと変わらないうねりがあるだけだが、川を遡る風紋は、水を凹ませて、細かい影の漣を幾重にも広げた。支流のどぶ川は海から逆流する波がいつもより喫水線を上げており、颱風、というか熱帯性低気圧に変わった名残を残している。しかし、沖から寄せる波は、やはり颱風一過の後だろう、堤防から鎌首を持ち上げる恐竜のような不思議な波柱を立てていた。
「颱風」の語源は様々で、三つほど、いかにもという説がある。①台湾や中国福建省で「大風(タイフーン)」といい、それがヨーロッパ諸国で音写されてtyphoonとなり、それが逆輸入して「颱風」となったのが語源(台湾付近の風という意味で福建省あたりで颱風が使われていたという説あり)。②アラビア語で、ぐるぐる回る意味のtufanが語源。③ギリシャ神話の風の神「typhon(テュフォン)」が語源。
マイケル・オンダーチェの小説『イギリス人の患者』(土屋政雄訳)には、②に基づいた、詩的で美しいアラビアの風の名前が次々と現われる。
モロッコ南部の旋風はアージェジ。農夫はこれにナイフで立ち向かう。秋の風アルムはユーゴスラビアから吹く。アリフィは無数の舌を持ち、大地を焦がす。砂漠の謎の風「・・・」。ある王子がこの風の中で死に、以来、王がその名前を消し去った。といったように、七色の旋風はアラビア海、エーゲ海を渡ってとどまることを知らないが、日本にも風の名前だけで一本が編めるから(高橋順子編『風の名前』)、番号に颱風の名前が変わったのは、世界共通というグローバリズムの流れとはいえ、大工の世界が未だに尺で無いと日本の家屋は作れないと言うように、漁師達もまた風が読めないと漁ばかりではなく生死に関わることがあるので、例えば「いなさ」(南東の風)は颱風の季節に吹くので嫌われる。逗子でも北風なら多少は荒れていても船は出すが、南風は出さない。沖に出ていても南が吹き始めると、すぐ寄港する。あっと言う間に暴風になるからだ。靄もそうである。ほわほわと靄が波紋にそって湧き出すと、一目散に船を返す。数分としないうちに、目の前に見える港が掻き消される冬の靄は本当に一気に視界を奪い、すぐ晴れるだろうと高を括ると遭難する。
掲出句の「二百十日」は「九月一・二日の前後は気候の変り目で、暴風雨が襲来することが多い。立春から二百十日目に当るのでかう呼ばれてゐる。丁度稲の花期で、農家では特に此日を警戒する。二百二十日は二百十日から十日目で、二百十日と同様、南洋方面からの颱風が恐れられる。農家ではこの両日を厄日としてゐる。」(『新歳時記』)とあるように、荒れるはずの二百十日が凪いで、漁の帆が襖のように並ぶ様が、安堵して詠まれている。「いなさ」もそうだが、風に関する言葉は、農事と漁にちなんだ名前がほとんどである。日本では風の名前を知る事は、暮しを知ることでもある。
作者の松永晩羊原は、まつなが・ばんようげんと訓むのだろうか、佐世保の俳人としかわからないが、句集『秋韻』を出しており、
東風の空紺きはまりて心飢う
土用浪紺青の夜を追ふごとし
臭木の実熟れて鳴瀬の水早し
鶫鳴く湖真つ青に照る日澄む
氷雨して野は竹馬の子に光る
おもふことつきず師走の雨に濡れ
といった句が、インターネットの検索で拾える。
颱風の掲出句は、昭和16年の『ホトトギス雑詠選集』ではこの二句のみが選ばれている。
阿蘇丸という投句地は船上句を意味し、上ノ畑楠窓(うえのはた・なんそう)は、虚子が昭和11年2月16日より6月11日まで渡欧した箱根丸の機関長であり、寄航先で虚子と同行している俳人である(註1)。「颱風に遭ひたる船」の「遭ひたる」は遭難の「遭」であるから、それだけで満身創痍の船と乗客が見える。
風生の句は、橡は臼になるほど大きくなる木なので、颱風にも幹はどっしりとし、その長く大きな葉がばさばさしている姿が見えるが、柄の長い葉なので、揉まれ撓いつつ、大木の羽ばたくような姿は「橡は橡」という断定に納得させられる。
颱風9号は、9月3日15時に発生し、9月8日11時過ぎに観測史上初めて北陸福井県に上陸し、15時に静岡県で熱帯性低気圧となって、関東地方を横断して消滅した。まさに「二百十日」(9月1日)と「二百二十日」(9月11日)の間に、発生した颱風と言える。
(註1)楠窓で思い出すのは、杉田久女が狂女であったという、虚子の流布の根拠のひとつとなった渡仏時の門司寄航の際の彼女の奇行のエピソードに、その名前が出て来ることだ。帰航時の門司寄港の際、久女が機関長の楠窓に面会し、何故虚子に逢わせてくれぬのかと泣き叫んで手のつけられぬ様子であったと言い、渡された色紙の字は乱暴な字で書きなぐってあって、虚子は一字も読めなかったと言う。だが、実際の運行記録は違う。船は帰りには門司に寄港していない。渡仏時の出航の際には門司に寄港するが、この時も久女は船を仕立てて先頭に立ち、箱根丸を沖まで追ってくるので気違いじみていて辟易したと虚子は言っているが、久女は虚子の出航を待たずに級友と電車で帰宅している(増田連『杉田久女ノート』)。杉田久女への虚子の狂女虚構への姿勢は謎が多い。虚子には『国子の手紙』という虚子宛の久女の手紙をパラフレーズした小説があるが、久女の仮名である国子の名前は、もうひとりの虚子を慕う愛弟子森田愛子の住む三国から取られたもので、虚子の森田愛子を書いた連作小説『虹』を読むと、その扱いに雲泥の差があるのに驚く。にも関わらず、虚子の作品の選の目は曇らない。依怙贔屓がないと言えば嘘になるが(森田愛子は巻頭が取れるほどの俳人では無いが、虚子は一度だけ採っているから)、作品の選は、小説の扱いとは違って久女と愛子では雲泥の差があるからだ。それは『ホトトギス雑詠選集』と『新歳時記』を読めば歴然としている。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿