2010年10月16日土曜日

ホトトギス雑詠選抄〔38〕酒三題

ホトトギス雑詠選抄〔38〕
秋の部(十月)酒三題

猫髭 (文・写真)


くゝくゝとつぐ古伊部の新酒かな 大阪 皿井旭川 昭和9年

古酒の壺筵にとんと置き据ゑぬ 越後 佐藤念腹 大正15年

そくばくの利を得て父の濁酒 斎藤俳小星 大正4年

皿井旭川(註1)の句は「くゝくゝ」(表記は後の「くゝ」は踊り字のくの字点)が新酒を飲ませてくれるオノマトペである。普通酒を注ぐオノマトペは「とくとく」だが、新酒は「くゝくゝ」かと、思わず酒屋へ走ってしまった。と言っても、逗子も那珂湊も「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」という狂歌ほど山奥ではないから歩いて十分飛んでも八分である。生憎那珂湊の酒屋の亭主が留守で婆さんしか居らず、どれが新酒かわがんねと言うので、新酒だから新しく入荷した酒だっぺよと言うと、そんなら今朝入ったのがあると言うので、木箱を引き出すと果たして昨日の日付の生酒。これだっぺよと早速開ければ、火入れをしていないから、蓋を取れば、ぷしゅうっとフルーティな香りが鼻腔を「呑んでくれい」とくすぐる。冒頭の写真右側がその特製純米酒の水戸は吉久保酒造の「一品」である。生酒なので濾過しておらず、清酒の透明度はないから、やや黄色味がかっている。肴は雲丹を蛤の殻に盛って焼いた雲丹の貝殻焼である。ちょっと醤油を垂らしていただく。くくくくと注いで雲丹をちょっと嘗めて新酒を口に含むと、くくくくのくーっである。ただし、旭川先生と違い、我が家には古伊部(こいんべ)焼(備前焼)の徳利もぐい呑みもないから、湯呑で呑んでいる。

佐藤念腹(さとう・ねんぷく)(註2)の古酒の句もまた、古酒の壺を筵に置く「とん」が、古酒の熟成して酸味を増した琥珀の色がたぷたぷと、これまた「呑んでくれい」と誘う句で、古酒の壺を筵に車座に囲んで、丼に柄杓で注ぎ回るような野趣溢れる饗宴が見える。古酒は三年醸造酒が多く、わたくしの舌に記憶しているのは山形の「初孫」古酒と(岩牡蠣との相性抜群)、やはり山形の「出羽桜」(吟醸酒でこのアップル・フレバーを超える酒は知らない)の古酒「枯山水」で、「初孫」は氷の桶で冷やして呑み、「枯山水」は熱燗で呑むとおいしい。氷室で低温熟成させる古酒もあるが、糖分が増すようで、古酒というより貴腐ワインに近い。

冒頭の写真の左側の一升瓶が、石岡の誇る「白菊」の古酒、特選本醸造熟成酒である。肴には鯣(するめ)烏賊の塩辛黒作りを添えた。烏賊墨は蛸墨の十倍以上のアミノ酸が含まれるので、コクが増すのと、「ムコ多糖」という抗癌作用があるので、癌を患った友だちに食べさせたくて、行きつけの魚屋「魚徳」の親爺さんに頼んで墨袋を溜めておいてもらって作ったものである。

斎藤俳小星(さいとう・はいしょうせい)(註3)の濁酒の句は時代を感じさせる。濁酒というと、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の一節「濁り酒濁れる飮みて 草枕しばし慰む」が人口に膾炙しているが、いわゆる「どぶろく」で、醪(もろみ)を濾さない酒であり、家庭でも簡単に作れるので、わたくしの記憶では密造酒という意識は余りなく、家庭で作る分くらいはお咎めなしという雰囲気だったが、下賤な酒であることには変わりはなかった。というのは、どぶろくと言うと、小学校の仲の良い友だちの家へ初めて遊びに行くと、雨戸もない平家の畳が凹んだ上で、どぶろくを丼であおりながら、上がるんじゃねえと友だちの父に怒鳴られた記憶に今も立ち竦むからだ。この句は切ない。那珂湊には、赤貧洗うが如しという家は五十年前は至るところにあった。

どぶろくの概念が変わったのは、父が京土産に買ってきた「月の桂」の「大極上中汲にごり酒」(東京オリンピックの年に日本で市販された最初の濁酒)を呑んだ時で、はんなりとしたおいしさに、京都へ父が行くたびに土産にせがんだのを覚えている。勿論わたくしは未成年だったが、昔は子どもが酒を飲むとか酒席にいるとかには鷹揚だった。大人が酒を呑む姿を子どもが見て育つというのは、わたくしはいい文化だと思う方である。だから、「子連れお断り」と貼紙があるような店は、いくらネタが新鮮で安くて評判でも、足を向けない。わたくしは横浜の中華街や鎌倉の天麩羅屋に何十年と通っているが、一度も嫌な顔をされたことがない。子ども用のバルタン星人のお皿は、主の息子の食器だったりして、その息子も今では立派な若主人になっている。


註1:皿井旭川は「蠅」で採り上げたが、句集は『旭川句集』(昭和18年、天理事報社) と同名で昭和46年に私家版があり、インターネットで検索したら、昭和46年の私家版がヒットしたので注文したら、限定家蔵の刊行者用愛蔵版限定十部の内六番が届いて仰天した。天金どころではない布装帙入外函付総革装三方金装本で、総天然色の短冊や色紙が折り込まれた溜息が出るようなぴかぴかの句集で、遺族の痛いほどの愛惜を感じた。昭和55年の『虚子選年尾選 躑躅句集』も遺族の「父への追憶」という冊子を添付した非売品だが、見事な句集で、遺族や弟子たちの編んだ遺句集というのは本当に暖かい。

註2:佐藤念腹。本名・佐藤謙二郎。明治31年、新潟県生れ。高浜虚子に師事し、同門下の逸材として注目されたが昭和2年、渡伯し、第二アリアンサ移住地入植を経てバウルー市に移転。生涯、バウルー市に居を構えてブラジルにおける俳句の普及に多大な功績を残す。みずからも、開拓俳句などで虚子門下のホトトギス派の一流作家としての地位を築いた。戦前戦後の邦字紙の俳壇選者を務めながら句誌『木蔭』を主宰し、多数の弟子を育成した。また、渡伯前の虚子のはなむけの句、「畑打って俳諧国を拓くべし」を使命として写生俳句の興隆に全力を尽くし、『ブラジル俳句集』、『念腹句集』など多数の著作がある。聖市イビラプエラ公園日本館内には、「雷や四方の樹海の子雷」の句碑がみられる。昭和54年死去。(ニッケイ新聞。「20世紀-コロニアの20人」より引用)

註3:斉藤俳小星(明治16年~昭和39年)は本名、徳蔵。別号、夜鏡庵梅仙。埼玉県所沢生。明治44年、高浜虚子に師事し、大正9年に『ホトトギス』同人となる。農家で米屋のため、農事に関する秀句が多いことから「農俳人」「土の俳人」と称された。新光寺墓地にある斎藤家の墓前に立つ碑文は、亡くなる前日の絶句「枯寂裡に活を点じて石蕗咲けり」で、書は富安風生。風生ほか、鈴木花蓑、原石鼎らと親交。句集『徑草』(昭和26年)。

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