2011年6月25日土曜日

●週刊俳句・第217号を読む 藤 幹子

週刊俳句・第217号を読む

藤 幹子


ほー、とか、へー、とか言っていたら話にはならないのだけれども、今回の週刊俳句・第217号を読むにつけ、私はほーとへーを連発する機械に成り下がっていた。(大概そうだという話もある)これだけ読み応えのある回とは知らず本稿を引き受けてしまった事に怖じ、日曜日は己を叱咤することから始まった。

それにしても、青木亮人氏の論考は、なんと読みやすいのだろう。(週刊俳句 Haiku Weekly: 彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読 有季定型と「写生」は結婚しうるか(1) 青木亮人

冒頭でまず「批評」という事そのものを説く、それにより、本論にどう接していけばよいか心構えをさせてもらえる。日頃から接する機会の多い人ならばともかく、私のような普段そういうものを読みつけない人間にとっては、研究文・評論文などに類するものに対峙したときに、根本的な事があやふやなままな事がとても多い。

今回「批評」について「断言の魅力」、また「多くの批判と誤解にさらされそれ以上に巨大な無関心に包まれようとも、取りかえの効かない、切実で、緊迫した「文学」像を読者に訴えようとする、その存念が文体に宿っていること」を文学研究においては迫力とも魅力ともする、と書かれた事で、すとん、と納得し、その後の展開において書かれる、「彌榮氏はなぜこのような書き方を選んだのか」がすんなりと頭に入ってきた。

そして「多くの批判と誤解に~「文学」像を読者に訴えようとする」という文はそのまま後段の彌榮氏及びかつての子規の切迫感にかかってくるわけで、先を読み進めながら前段に述べられていたことの理解をさらに深めていくという快さを味わうことができる。子規と彌榮氏の立ち位置の相違、「写生」というキーワード、まだ本稿では言及されていないことにも興味は尽きない。

話題に興味はなくもないけれど、長そうだから読むのはやめておこう、というような方がもしもいたならば(そんな事を言い出すのは私ぐらいなのか?)ぜひ食わずぎらいせず読んでいただきたい。

しかしまたしても私は自分に驚くのだ、どうにも狭い考え方から頭を出せない自分に。

俳人の多くは決して、「文学」および一般世界において、俳句が歯牙にもかけられていない、あるいは通り一遍の理解しかされていない、という事を忘れているわけではないだろう。むしろよくよく知っているからこそ、外へ向けて発信する徒労をやめている。では外の世界は外の世界でやって貰おう、我々は我々で楽しむ、解る人にだけ解っていただければいいんですよ、と。故に、俳論はほぼ俳句実作者にむけて書かれるものであるし、作品もまたそうである。

それはどんな趣味の世界でも言えることであり、悪いことだとは思わない。事実私はそんな閉鎖性を愛している。

ただ、閉鎖性を愛するからといって、そのジャンルを外の世界へ表出させようという試みに対しての想像力まで無くしてしまうようではいけないと、今回強く感じた。何となれば私は、彌榮氏の評論に、「なぜこのように書いたのかわからない」という思考停止状態に陥る事しかできなかったからである。(それはおまえさんの理解力が足りないだけだ、との声が響き渡ります。ごもっとも。)

迷妄する私にとって、青木氏の研究者としての冷静な目は確かな道しるべとなった。「これを針でもって瞼の内側に記しておいたならば、これを恭しく読む者に一つの教訓となるであろう」という千夜一夜物語に繰り返し出てくる一節を思い出しながら、次回の記事を楽しみに待っている次第である。


時評について、悲しいほどに何も書けない事に恥じ怖じている。(週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句時評第36回 吉野の花見 角川春樹『白鳥忌』に思うこと  五十嵐秀彦)全く芸のない感想しか書けない。つまり、とても面白かったのだ。

森澄雄と角川春樹。また、山本健吉、中上健次。「吉野の花見」という場に居合わせていた人々それぞれの言動を節度をもって追いながら、そのバックグラウンドにあろう、折口信夫、角川源義という巨人たちへ思いを馳せる。この短い文章の中で、彼らの軌跡に対しての筆者の愛惜をそこここに感じる事ができる。それがどうにも胸に迫るのだ。不勉強の私は彼らの著作を一つとして読んでいないが、五十嵐氏の文章にそっと寄り添ってみたいが為に、チャレンジしようと思うほどである。これもまた、必読。


おしまいに、10句作品より好きな句を。この乾き方はとても好きです。(週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 村上鞆彦 海を見に

  まだ息の絶えざるものに蟻たかる

  郭公や水切りかごに皿が立つ

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