2011年7月19日火曜日

●週刊俳句・第220号を読む 江渡華子

週刊俳句・第220号を読む

江渡華子


〔句集を読む〕興梠隆『背番号』を読む ハイクマシーン(佐藤文香×上田信治)より。

文香 「ぶらんこの子の顔が飛ぶ日暮かな 」には、驚いた。

信治  これは描写の句ではないの? 

文香  顔だけ飛ぶことはないでしょう。ホラーだ。

信治  日暮れだから、顔だけビュンビュン飛んでいる「ように見える」ってことかと。

文香   これは、俳句への疑念に感じられた。それに、この書き方は「ビュンビュン」じゃないぜきっと。

信治  ああ、おもしろいな。それはきっといい読みだ。

文香  子供はひとりだよ。このぶらんこのある公園全体に、この子しかいない。

このホラーを、ぶらんこ(春)且つ「日暮+かな」でいかにもフツーの一句と同じように
見せてるあたりが、ヤバいと思う。この人は、俳句きらいなんじゃないかと。

確かに。普通に見せることができるのが、隆さんの巧みなところだと思う。私は5句あげるのなら、この句を入れたと思う。シュールで素敵だ。この句は、妄想させてくれた。見えた情景は、文香さんの見た情景に近いかもしれない。


少年は、ブランコを漕いでいた。漕ぎ始めてから、そう長い時間は経っていない。それまでは友達と色鬼をやったり、ジャングルジムに上ったりしていた。皆が帰ってしまったさっき、さてどうしようかと見渡して、ブランコが目に入った。普段、酔うからブランコはあまり漕がない。どんどん高くまで漕ぎ、漕ぐのをやめて、また高くまで漕ぐ。繰り返すうちに、やっぱり酔ってきた。漕いでいるうちに、あっという間に日が暮れた。夕焼けが鮮やかになる頃、公園に電気が灯る。電気はブランコを照らさないから、ブランコのある場所は、空と一緒に暗くなるのだ。

暗いのは、怖い。公園は暗い場所が多い。家に一人でいる怖さとはまた違う。

また強くブランコを漕ぎ始める。ブランコの終わり方はいつもこうするというやり方のために。

大きく大きく揺らし、一番高いところで、跳んだ。地面から跳ぶ時は、足が一番先に出るけど、ブランコは、顔が一番先に出る。その時、顔だけの存在になるような気分がして、それが楽しい。

跳んだ瞬間、光のあたる場所に出た。顔から、光に入ったのだと思う。


俳句を詠み、詠まれた俳句を読むことは、堂々巡りにも思える。しかし、俳句を読んで、散文化されたものが、再び俳句に戻ることはない。それは、読むとき、読む対象が完全なる詠まれたものだからだと思う。散文化されたものが、俳句に戻ることがないと言って
も、それは広がった世界が再び同じ17音に収まることがないという意味で、あくまでそれは17音から広げた世界だということだ。

「こんな世界を感じとった」「作者はこんなことを言いたいんだと思う」

凝縮した17音から、そういうことを並べる意味を、まだ見つけることはできない。完成された作品をくずして、散文にすることに意味はあるのだろうか。

もしかしたら、読むことが一番俳句のためにならないのかもしれないと不安になることもある。上手く読めなかったことが、その対象である俳句が人目に広がる時に、悪影響を与えることはあると思うから。

それでも、読むのだ。無駄なことなのかもしれないが、私が俳句を詠むとき、どんな読まれ方でも、読んでくれる人がいると信じて詠んでいるのだから。

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