【俳誌拝読】
『鏡』第2号(2011年10月)を読む
野口 裕
『鏡』は八田木枯を中心とした集まりで、編集・発行は寺澤一雄。
冊子の表をめくると、細かな色糸を透き込んだ薄い紙が一枚挟んである。体裁には無頓着な当方にも、造本には気を遣っているとわかる。奥付の発行所の住所が間違っていたようで、ボールペンで数字が消されている。冊子の裏には、新しい住所が貼り付けてある。発行部数は知らないが、これを一部一部施した手間は馬鹿にならないだろう。句会に止まらない集団のエネルギーがこんなところにも現れている。
気になる句を上げて、鑑賞を織り込んでみることにする。
老獪のさらしくぢらでありにけり 八田木枯
よくあるやり方に、印刷された句へ直接○を書き込むのがある。当方にはどうも性に合わず、その方法は敬遠していたが、別紙に書き込むゆとりを持つのが難しくなり、今回は直接書き込んでみた。ところが、ここに句を取り上げる段になると、○を書き込んだ句とは異なる場合が多かった。
慣れないことはやるものではないと、ちょっと反省しているが、八田木枯の句に関しては、動かなかった。昨今の鯨を取り巻く状況をも踏まえて、老獪の一語は不敵な面構えの自画像を作り上げる役割と、世の状況に対する韜晦の意味合いをかねて巧みとしか言いようがない。
パンに牛酪(バタ)たつぷり平塚らいてう忌 大木孝子
久保田万太郎の句が、「パンにバタたつぷりつけて春惜む」。一瞬、平塚らいてうが脂肪分の摂りすぎで太った人だったのか、と思ったが、画像を検索してみると違った。
トーストという名の優秀な牝馬がいた。後にダービー馬の母親になった。そんなことも思い出した。
舟を出さうか小鼓の穿つ穴 羽田野令
額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」を思い出すが、これは空似か。しかし、頭の中を離れない。小鼓の繰り出す鋭く高い音により、天空に穿った穴が月になるのだろうか。
あるいは、ホトトギスの同人、西山泊雲の作った丹波の地酒は虚子により「小鼓」と命名され今に至る。穿たれた穴は、したたかに酔ったおのれの五臓六腑。小鼓の音は、「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」(松本たかし)とばかり、乱打される。(鑑賞文中、季節の混乱あるも酔いのなせる技、乞寛恕。)
米ナスを間違へてゐたテロリスト 大上朝美
さうかさうだったのか、と鑑賞文までが歴史的仮名遣いになりそう。
人間と風が案山子を動かせる 寺澤一雄
案山子を動かせる風となると、実際には強風のはずだが、なんだか優しい風のように聞こえる。乱暴な動物であるはずのホモサピエンスまでが優しく見える。案山子の功徳にちがいない。
コーヒー豆のやうなる地図記号薄暑 木綿
コーヒー豆に似ている地図記号は、何だろうか。○書いて中にシミみたいな印があるやつだろう。いずれにしろ、街中で地図を睨みつつ目的地を探すとなると、風を感じる余裕などなくなる。涼を求めて、コーヒータイムとしたことだろう。
新緑や不吉な話ばかりして 村井康司
誰の言葉だったか、「四月は残酷な季節である」というのがあった。句の含意には、同じようなこともあるはずだ。三月は色々なことが次々と起こった。色々なことはまだまだ続く。
子鹿の目天の河へと流れ入る 谷雅子
生命観の横溢しているはずの子鹿の目が天空に流れ込む。生死のない交ぜになった時間が訪れる。夜の夜たる由縁ではある。
洋服の青山に入る赤い羽根 西原天気
東京の地名にちなんだ句群。東京にはあまり行ったことがないので、青山というと斎藤茂吉や北杜夫のことぐらいしか思い浮かばない。ではあるが、「洋服の青山」は知っている。背広を買ったこともある。
赤い羽根は、丸善に入った檸檬ほどに誰かをどきどきさせてくれるだろうかと考えると、残念ながら、昨今の赤い羽根は針を持たずにコバンザメよろしく、両面テープでべたりと服地に貼り付ける。情けなくも現代である。
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