2011年12月6日火曜日

〔ネット拾読〕16 夜中に冷蔵庫を開けたものの、何がしたかったのか忘れた 西原天気

〔ネット拾読〕16
夜中に冷蔵庫を開けたものの、何がしたかったのか忘れた

西原天気


この「拾読」、火曜日に定着の気配。




さて、シンクロニシティというものがときたま起こります。週刊俳句・第241号掲載のこの2本の記事。

小林苑を・空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 2 〕

松尾清隆・〔超新撰21を読む〕予言? 田島健一の一句

どちらも「現実」〔*1〕と俳句の関係にまつわり重要な示唆を含むようで、たいへん興味深く読みました。

前者は、飯島晴子〈ベトナム動乱キャベツ一望着々巻く〉と関悦史〈人類に空爆のある雑煮かな〉を取り上げ、どちらも私の好きな句、どちらも技巧の句であり、目新しい措辞による鮮度の高い句である。」と書きます。

後者は、田島健一の「大震災のあとに色んな句が出来るけど、あれはぜんぶ起こったことなんだよ。だから何か違和感があるわけよ。起こる前もそういう事ってあったはずだと思うの」との言を挙げ、特定の現実への俳句のアプローチに言及しています。

両者は、いわば《現実をなぞるだけ》の現実との対し方と、どのように一線を画すのかについての糸口を示しているように思いました。小林氏が「技巧」「鮮度」の語を用いたあたり、また、松尾氏が「予言」と題したあたり、互いに異なる局面ながら、ヒントになりそうです。

ただ、「予言」という切り口については、すこし保留にしておきたい感じが、私にはあります。反復性のない(というのは、自然の反復性と対照的な)社会的事実・歴史の事件と、時間的な関係を結ぶよりも、むしろ、別の層から「ひらめき」のようにアプローチするイメージのように思えます。語を宛てるなら、「託宣 oracle」のような感じでしょうか。「感じ」というだけなのですが。

〔*1〕「現実」という語を雑駁に用いましたが、社会的現実と限定、あるいは社会的事実と言い換えたほうがはっきりします。さらに限定すれば《大見出し》の出来事、でしょう。しばしば「現実」と便宜的に呼んでしまうのですが、註釈付きの現実として扱いたいのは、現実を広義に捉えれば、「すべて」程度にまで拡大してしまうからです。例えば、〈甘草の芽のとびとびのひとならび〉(高野素十)にも「現実」はあります。《大見出し》とさらに限定するのは、社会的事実というだけでは、日々の生業もりっぱに現実です(この話題では、松本てふこ・はたらく俳句:詩客が、これまたタイムリーにシンクロしています)。



鶴岡加苗 私が「週俳10月の俳句を読む」「週俳11月の俳句を読む」 への寄稿をお断りした理由

は、

第57回角川俳句賞受賞作「ふくしま」他5作を、ハイクマシーンが読む(佐藤文香・上田信治)

への反応(否定的見解)。で、それに応答したのが、

第241号の後記(上田信治)

角川俳句賞受賞作についてのハイクマシーンの対話は、興味深く読み、説得力のあるものと思いました(私自身がこの作品と選考座談会をどう読んだかは別にして)。鶴岡加苗氏の記事にも意義を感じました。作者と作品は分けて考えるのが私のスタンスですが、後記にある、
作品批判と作者自身に対する攻撃がすり替わることは、恥ずかしいことだと思います。/もっとも「作品が鈍感だ」と言えば、それは「作者が鈍感だ」と言っているのと、実は同じ意味です(…)しかし、それは「攻撃」ではない。作者を傷つけることを意図しているのではないからです。
という見解にも納得。3つの記事のいずれにも納得してしまうのです。衝突や軋みが生じているのだとしたら、それは上田信治氏の「しかし、それは「攻撃」ではない。作者を傷つけることを意図しているのではないからです。」の部分に関連するのでしょう。意図していなくても、攻撃に映ってしまうことは、往々にして起こる。これ、むずかしいところです。

批判は非難とは違うのですが、イコールに読んでしまう人がいます。また、批判の際には、彩として揶揄を含んでしまうことがあり、それは攻撃と紙一重です。「彩」は読者へのサービス精神の一端ですが、それを笑って受け入れる人もいれば気分を害する人もいる。後者を気にしすぎると、のっぺりと当たり障りのないものになり、そうなると、人に読ませる意味がどこにあるのかということにもなるでしょう。いや、ほんと、むずかしいところです。

で、です。ここで否定的見解(批判)とそれへの反応という問題に一般化してみようと思います。私事をからめて書くことになりそうで恐縮ですが、そのあたりはご海容のほど、よろしく。



ええっとですね、批判というのはエネルギーを使うものです。何にって、批判に到る理路を組み立てる準備作業において、もですが、それ以上に、その後の反応に、です。

しばしば起こる反応は、「感情的な反発」です。今回の鶴岡加苗さんの記事は、感情面の反応を含んではいますが、それだけではないから、週俳への掲載となったわけですが、なかには、感情でしかない反応というのがあるわけです。

批判には(少なくとも私が書く批判には)感情はありません。感情など持ちようがないことも多く(批判の多くは「ちょっと、その部分、おかしいんじゃないですか?」という「指摘」がもっぱらなので)、また、要らぬ感情が入ってこないような組み立て方をします。同時に、「自分のため」にする批判、「自分の気持ち」を押し通すための批判になってはいないか、の検証もする。

ところが、そうした批判に「感情的な反発」を感じる人が、そこそこいらっしゃる。

見解の応酬があれば、議論の展開もあり、それが批評を豊かにするのですが、感情とは応酬しようがありません。その手の不毛が繰り返されると、批判を発信する側がどうなるかというと、私の場合、「あほらしく」なりました。

「あほらしい」。これ、関西弁ですかね? ニュアンスが伝わるでしょうか。徒労を感じる。

それがあって、このところ、「自分が『いいな』と思ったことだけ書いていよう」と思うようになりました(徹底しないところもありますが)。

ヘンだなと思うこと、それは違うんじゃないの? こうすればいいのに、と思うときも、それが「非難」に解されない相手とケースをを選んでいくようになりました。

俳句にまつわる批評や見解表明において(堅苦しい言い方ですね)、どんどん怠け者になっていったわけです。

しかしながら、誰もが、私のように怠惰になったら、俳句世間は、どうなるのでしょう。褒め言葉や高評価だけが、贈答のように交換されるようになります。それは不毛というだけでなく、気色の悪い世界です。

批判は、きほん、「公共」です。誰かのためではなく、みんなのための批判です。それらがまっとうであればもちろんのこと、まっとうでなければ、どうまっとうでないのかを批判すればいい。その応酬が批評の平面を生み出し、さらには批評空間という「公共」を生み出します。

「それ、ダメですよ。そこ、おかしいよ」という声がなくなっては、おしまいです。その意味で、

高山れおな 日めくり詩歌 俳句(2011/12/05)四十八番 回す:詩客

は、読み応えのある批判、否定的見解の表明の一例です。彩として取り入れた筆致やネタが揶揄すれすれ(否、そのもの、かも)。ハイクマシーンの前掲記事にも増して、「感情的な反発」を呼び寄せそうでもあります。

繰り返しになりますが、褒めるのはラクです。その逆はしんどい。しかし、どちらもあって批評空間です。そして、批評とは公共なのです。

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