相子智恵テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ
テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食ふ 関 悦史
句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(2011.12/邑書林)より。
今年最後の更新となった。最後にどうしても挙げたいのが掲句である。
私自身、今年の後半は日常の忙しさに飲まれた。その飲まれ方は驚くほどだった。震災で感じていた思いや違和感が、忙しさによって「石化」していった。心の中のぐちゃぐちゃの土の上に、とりあえずアスファルトで応急処置の蓋をした「日常」という高速道路を突っ走っているうちに、いつしか、心にぐちゃぐちゃの土があったことすらわからなくなっていった。
東京在住の非被災者の私が、さらに自分の中に震災の「薄れ」を経験した。そのことの申し訳なさを正直に、過剰な自省でも声高な教訓でもなく「事実」として、私はここで言わねばならない。この句集を読んで、そう思った。
なぜならこの句集の「生(なま)感」に、私の中のぐちゃぐちゃの土が戻ってきた気がしたからである。それは作者自身の、いまなお続く被災生活を詠んだ句ばかりではなく、この句集全体から感じとれることだった。虚構性の高い句であっても、なぜか地続きで感じられる「生(なま)の共振」があるのだ。
この稿を書いていて、ふと数年前に読んだ内田樹のブログ(
http://www.tatsuru.com/columns/simple/24.html)を思い出した。「現代を詠む」や「新しい俳句」を標榜していても、現代の〈私たちの輪郭がぼやけて〉いない俳句というのは、それほどに多くはない。ここでいう意味で、翻訳可能な「現代俳句」を挙げるとしたら、今年はこの句集なのではないか。
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