ヘケテペケ川の入り日を眺めつつ
西原天気
例によって、表題と記事の内容には、何の関係もありません。
さて。
■(続)『雑文集』抜き書き:僕が線を引いて読んだ所
http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/20120116
村上春樹『雑文集』の一節、レイモンド・カーヴァーを俳句に置き換える。これがなかなかの説得力をもってしまうのは、引用者(mf-fagottさん)のセンス。
僕はいわゆる「うまい俳句」を作ろうとしてはいない。僕が作るべきなのは、ただひとつ僕自身の物語である。僕にしか切り取れない世界の風景を、僕にしか語れない話法で、俳句として語ることである。(…)で、「俳句は自分自身を「相対化」することで、自分を少しだけ救済することができると思う。」とはmf-fagottさんによるまとめ。
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「自分」や「私」に関連して。
■山田耕司 公、ウスくも濃くも:詩客
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2012-01-20-5285.html
全文は実際に読んでいただくとして、次の「まとめ」は、個と衆(筆者=私の把握です)、個別と一般の関係のなかで「作句」を捉えて、クリア。
◎ 私を探求していくことで、私のことしか言えないのは「芸がない」。私への踏み込みがないのもまた「芸がない」。●
◎ 公として形式を牽引していくのは、形式を分析する力ではなく、形式を体現する力。
◎ 形式を体現をするのは、それを見届ける受け手あればこそ。どんな受け手を仮想するかで、送り手の芸の向きが変わる。
■五十嵐秀彦 「中央」と「地方」について考える:週刊俳句・第249号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/01/57.html
■五十嵐秀彦 始めてみないか:無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51691700.html
五十嵐秀彦氏による2本の記事。前者の続きが後者という関係。「地方」と「中央」、それぞれが何を指すのかは、すこし微妙な問題(だからカギ括弧付きになっているのでしょう)。にせよ、五十嵐氏の情況に対する「もどかしさ」のようなもの、そしてそれを打開しようとする意志が伝わります。
これらを受けて私は自分のブログで、ちょっと別の角度から、インターネットの地域性について書いた。(≫「地方」とインターネット)。
五十嵐氏がこれを受けて、
■五十嵐秀彦 20分の1
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51692195.html
「20分の1」は、「少ない」のではなく、北海道に暮らす五十嵐さんにとっては意外に「多い」のですね。
でもネットから離れたところで俳句を作るひとたちと話していて、週刊俳句を知っているという人に出会ったことがない。/思い返してみても本当に一人もいない。/圧倒的に「なにそれ?」という反応が返ってくる。/ということはどういうことかと言うと、週刊俳句の存在は北海道の既存の結社や俳句団体には1%の影響も与えていないということだ。影響を与える必要はないと思うのですが、知ってほしいですね、やはり。
なにがしか変化への働きかけが必要かもしれません。そこで週刊俳句としての対応策なのですが、この手のことでよく言われるのが、「いま、そこにいる人たちに変化を求めてもムダだ。彼らが消えていくのを待つほうが早い」。
最善策は、長く続けること、かもしれません。
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