相子智恵ふるへる電線冬ざれの野をよぎる 鴇田智哉
『俳句』3月号「自然を詠む、人間を詠む 新作2句」(2012.2.25/角川学芸出版)より。
ふつうの風景句ならば「冬ざれの野をよぎっている電線が、(寒風か何かで)震えている」という風景を眼前に見せてくれることになるのだが、この句はそれだけでは読めないところがある。
まるで電線が生きもののようにブルブル、ビリビリと寒そうに震えながら、蛇のように伸びて、冬ざれの野をよぎってゆくようにも読めるのだ。それが不思議と読者の心にひっかかりを残す。
震災から一年ということで組まれた特集の一句であることを思えば、〈電線〉という一語にも考えさせるものがある。
しかしこの句はただ、この句だけを読めばよいのだろう。冬ざれの、色の失せた野をビリビリと震えながら伸びてゆく黒い電線を思えば。
冒頭のような「実の風景」とも読め、しかしながらそれだけではない、心の中で奇妙な生物のように育ちゆく、荒涼とした「虚の風景」が心の中をざわつかせる。
俳句には「実」を詠んでその尊さに改めて気づく豊かさもあるが、「虚」の世界もまた、俳句を飛躍的に豊かにする。そしてこの句は、その両方を含んでいるのである。
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電線の神無月より増えるのも 敬愚
返信削除残念ながら、もうそういう世界じゃないみたい。げに、これだけかもしれない:
葉っぱない空の電線だらけなる
目は泣くが耳は喜ぶ冬伝染
葉も無くて旬になる電線の歌
ソローはそれをAurelian Harpと称した。
(このコメント箱はペイジの後に開いた。すでにペイジを閉じたからMonday Poetのお名前も電線出た句も忘れてしまいました。失礼。